フランス農民一家50年小史、自らの生産物で生きる権利はどこへ

―ル・モンド紙の記事から―

農業情報研究所(WAPIC)

04.4.7

 3月30日付のフランス・ル・モンド紙が、「農民、ひとつの世界の終焉」と題して三代にわたる農民一家の小史を掲載している(1)。それは、この50年間におけるフランス農業界のあらゆる出来事を物語る。留めようもなく驀進する現在の「農業改革」に対するフランス農民の代表的立場を知ることもできる。以下に紹介することにした。

 一家は、ブルゴーニュ州ソーヌ・エ・ロワール県のクレイエットの町近く、ロワールの渓谷とワインで有名なマコンの丘に挟まれたブリオネの草原で畜産を営んできた。現在は、ベルトラン、ジャン、ビンセントの従兄弟3人が共同経営で乳牛、シャロレー種の肉牛、鶏を飼う。

 持ち牛の「マドンナ」について話すとき、ベルトランの目は輝き、興奮で声が震える。マドンナは、03年のパリ農業サロンのホルスタイン・コンクールで金賞を獲得した。ベルトランは、このメダルは我々の誇りだ、父も叔父も喜ぶだろう、この報償は、我々の仕事への報償であるとともに、彼らの仕事への報償でもあると言う。

 1925年生まれのジャン、28年生まれのアントニン、32年生まれのルイの3兄弟がこの仕事を始めた。彼らは、寛大で物静か、公正なことで名を知られたルイとジュリアの間に生まれた10人の子供のうちの3人だった。その父、祖父もクレイエットのシャトーの農夫だった。

 55年に死去した家父の時代、65haを経営していた。乳牛、豚、鶏がかまどのような薄暗い家畜小屋で飼われていた。この記憶も薄れる旧い時代、子供たちは木靴で数キロメートル先の学校に通った。婦人たちは出産と家事に疲れ果てていた。男は畑と家畜小屋の間を行き来していた。彼らは、家畜にブラシをかけ、小屋を掃除するのに時間を取られた。土地は低速でしか耕やせない。半ヘクタールを耕すのに何日もかかった。

 しかし、カトリック農業青年運動(JAC)(2)指揮の下、フランスの至るところで農業革命が始まった。50年、ジャンは父の後を継ぐ準備にかかる。普及用のパンフレットで、彼は、「農村青年、未来は素晴らしい!(・・・)我々の生産物を販売し、外国の生産物と競争することを可能にするために、原価を下げねばならない。(・・・)何故わが国に適し、報酬を改善するあれやこれやの生産に専門化しないのか?(・・・)ある者は糞面白くないと言うだろう。しかし、世界は進んでいる。我々は変化に従わねばならない」と訴えた。

 彼は小さなノートに重要な出来事を書きとめてきた。53年、彼は隣人と共に、農業技術研究センター(CETA)(3)を立ち上げた。研究を奪われた青年たちは知識に飢えていた。55年に父が死んだ。既に長年農場で働いてきた3兄弟が後を継いだ。56年、郡に初めてトラクターがやってきた。61年、皆が近代的機械を使えるようにする最初の農業機械利用共同組合(CUMA)ができた。ジャンの妻・マリーは、近代的「住宅設備」がやってきたことを覚えている。トイレット、シャワールーム、洗濯機、編み機、冷蔵庫だ。

 土地は皆が渇望していたから、経営拡大は不可能だった。他の農業者と同様、3兄弟は土地非利用型の酪農と養鶏、そしてシャロレー雌牛の伝統的飼養による集約化に向かった。ルイは、これは当時の人々の感情を害し、批難を受けたが、我々は需要に応えただけだ、戦後は大変に窮乏していた、「生産し、人々を養うという非常に強い要望があった。農民離村は国の工業化のために必要だった」と言う。

 協同組合、共済、農民組合、信用、知識と技術の進歩のお陰で、農業者の地位は向上した。3人はすべて、なすべきことをやり遂げたと、60歳前後で引退した。病気のアントニンは老人ホームで過ごす。ジャンとマリー、ルイとその妻のクレールは、ともに町の中の新しい家に住む。これは最初の所有財産だ。土地は借地だった。

 ルイとクレールは、農場の家具一式、ブルゴーニュ風の大テーブルをタイル敷きの屋内に持ち、パンを焼く。書斎の窓付き書棚には百貨事典が大事に納められている。息子のジャンは、彼は沢山読むから大変教養がある、私は読まないけれども、と言う。プチ・ルイ(ルイの息子の意)も組合の全国責任者になった。兄弟との仕事の分担のお陰で、84年から90年まで、全国農業経営者連盟(FNSEA)の部会である全国養牛連盟(FNB)の会長になった。小学校を出ただけで大臣たちと会った。これは県内でも尊敬に値する。彼の公正と寛容が称えられている。

 このかつてのサンジカリスト(組合運動家)は、「フランスの中心部の生活を可能にするために、繁殖母牛への特別援助を獲得するために30年闘った。それなしでは、ここも、リムーザンも、もっと過疎化しただろう」と言う。

 今農場では、かつての家が工事中である。従兄弟の大工の息子である27歳のビンセントは6年前に経営を始めた。クレイエットの侯爵から借金で買戻し、すべてを変えた。彼は、いつも「パトロンなしで」自由に暮らしたいと思っている。ルイの子は誰も農業者にはならなかった。ビンセントは、物知りで頭がいいからだろうと言う。

 旧い家畜小屋は物置小屋になった。新しい畜舎は農場の裏手の土地に突き出ている。3人の従兄弟と「共同出資者」は仕事に夢中になっている。それぞれ持ち場がある。ビンセントはシャロレーを育てる。アントニンの息子のベルトランが乳牛に専念、ジャックは鶏(と役所の無駄な書類作り)を受け持つ。

 ジャックは、我々の仕事の特徴は「ストレス」だと言う。彼が配置される建物の中には黒い羽毛の数千の鶏が散らばっている。それは、「物理的・道徳的に健康でなければならない」。彼は四六時中走りまわらねばならない。経営は賃借した150haの土地をもつ。

 ジャックは、「我々の両親に比べると、生活するためには、3倍の面積で乳は4倍、肉は2倍、鶏は5倍から10倍生産せねばならない。他人は工場だというが、25頭の乳牛と2羽の鶏で生活できれば幸せだろう。変わったのは奨励金で財政的に助けられていることだ。それで数字の辻褄を合わせている」と言う。

 この小経営者にとって、常に国に助けを求めることは、どれほど屈辱的で、矛盾したことだろうか!92年のEU共通農業政策(CAP)改革による価格引き下げ以来、多くの生産が補助金だけで生き延びている。ビンセントは、かつてのように生産するものだけで生活できれば、それに越したことはないと言う。

 3人にはほとんど休暇がない。婦人たちは近くの家に住み、臨時雇い、薬局、教育職で働くが、経営に踏み入ることはない。6歳のジャックの末息子は牛に夢中になっているが、11歳、13歳の二人は肩をすくめている。ジャックは笑って言う。「我々の先祖は50年代、いささか時代遅れの者と見られていた」、その時代は終わった。だが、当時、彼らはコミュニケーションの必要など感じなかった。都会暮らしの者も田舎の出身者だった。

 農業者は弁明に慣れている。ジャックは、生産が押し付けられ、肥料が押し付けられ、生産すべき品種が押し付けられた、輸出で利益を得るために品質は台無しになった、いまや遺伝子組み換え作物まで押し付けられると言う。

 農業者は地方のスーパーのブロイラー販売促進活動に参加した。ジャックは、「消費者と議論するのは興味がある、消費者はどうせすぐ忘れるとしても」と言う。「人々は狂牛病危機から教訓を引き出した。家畜がどこで、どう育つかを知った。だが、今は完全に忘れてしまった。安さだけを追いかけている」と言う。

 これにはどんなデモも勝てない。ともかく、人はますます減り、ますます当てにならなくなった。ベルトランは言う。彼らの周りの農場は観光客ばかりだ。農業者は農業省に圧力をかけるだけでは十分でないと知っている。ブリュッセルでは他のEU14ヵ国代表がそれぞれ勝手なことをしゃべっている。EU拡大により、すぐに25ヵ国政府がCAPを統轄することになる。

 先代たちはFNSEAに加盟した。若者もこれを守っている。ジャックは地方組織を司る。だが、農業界の統一性を守ろうとするかつての馬鹿正直な忠誠はなくなった。ディジョンで行われた諸組合連合デモに行ったが、スキー帰りの着飾った者と一緒にデモする羽目になった。彼は、こんなお祭りデモには二度と行かないと言う。

 だが、彼によれば、FNSEAへの忠誠を批判することは、自分の過去に背を向けることだ。地方のレベルでは、組合は窓口、サービス、無償の弁護人の役割を果たしている。それは友人のネットワークでもある。孤立からの脱出の手段だ。今、かつてのFNSEA会長・ルク・ギヨーが小麦生産者から徴収する公金を組織の利益のために流用したという不正が発覚、彼に対する審問がフランス農業界を揺るがしている。しかし、FNSEAに忠実なルイは、その利害を護るのは当然、ジョゼ・ボベなどは家族の一員ではない、「分裂は前進を止めること」、断固として利益を護らなければ、農業保護の権利、輸出する権利、すべてを失うと言う。

 プチ・ルイは、各大陸の食糧主権への権利(輸入からの保護の可能性)が農産物市場開放に対置されねばならない、(市場開放の代償としての)補償援助は「モルヒネ」だと言う。

 ベルトランは将来を信じていない。生まれて10日のその息子・新たなプチ・ルイは彼の腕のなかでまどろんでいる。彼に畜産農家を継ぐようにそそのかすつもりはない。私が25歳のとき、同じ道に進むかどうかは分からなかったと言う。

(1)Paysans,la fin d’un monde(par G.Dupon),Le Monde.fr,04.3.30

(2)農村のキリスト教離脱傾向と闘う布教活動として1929年に生まれた。それは、農村内部の旧い支配構造に対立する社会的解放運動の色彩を帯びていた。第二次大戦後は、農業機械化進展の中で、農民の生活・労働条件を改善するものとして技術進歩そのものは認めたが、それがもたらす家族経営消滅と農民の賃労働者化を恐れていた。しかし、近代化がもたらす結果を自ら制御するという条件で、また農業人口流出も都市でよりより生活条件が得られるという理由で、次第に近代化を受け入れていく。50年の大会で、農業青年の生活条件改善に寄与し、かつ人類に安い大量の食糧を供給できるという理由で、完全に受け入れ、フランス農業近代化政策の立役者となる人材育成の基本的拠点となった。FNSEAや青年農業者センターの指導者はもちろん、現在のシラク大統領をはじめ、歴代の大統領や有力閣僚の多くも、青年時代にJACの薫陶を受けている。参照:北林寿信「農業政策の形成過程―フランスの事例と研究から―」『レファレンス』(国立国会図書館調査及び立方考査局)1986年12月号。

(3)問題の真剣な研究のために多すぎもなく少なすぎもしない同一地域の15人程度の「先端的」農業者で組織される農業技術研究・普及事業集団。JAC同様、これもフランス農業近代化に中心的役割を演じた。参照:同上。

農業情報研究所(WAPIC)

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