食品安全委、BSE対策で意見交換会、科学の名で消費者の要望に応えず

農業情報研究所(WAPIC)

04.8.5

 昨日、食品安全委員会プリオン調査会の「日本におけるBSE(牛海綿状脳症)対策について(今までの議論を踏まえたたたき台)」(参照:食品安全委員会BSE対策見直し、結論を先延ばし、リスク評価は支離滅裂,04.7.19)に関する意見交換会が開かれた。傍聴者として参加したが、基本的には、意見陳述者と調査会のやりとりは「すれ違い」に終わった。会議の内容はいずれ公表されるだろうから詳しく紹介するつもりはない。また、BSE以外の重要問題も山積しているから、いちいちコメントする労力や時間ももったいない。重要と思われるいくつかの点を指摘しておくに留めたい。

 9人の意見陳述者のうち外食業界の一代表者と正体不明の二人の意見陳述者を除く消費者・生産者を代表すると見られる6名の陳述者の意見は、食品安全委員会に対して、日本の消費者のvCJD(BSEが人間に伝達したとされる変異型クロイツフェルト・ヤコブ病)感染リスクを減らすために取られた措置の、あるいは今後取られるかもしれない措置の有効性の検証を求めるという点では概ね一致していたように見える。これらの措置とは、検査、特定危険部位(SRM)の除去、牛の感染を防ぐための「フィード・バン」(牛の肉骨粉飼料禁止)、外国からの輸入牛肉・牛製品から来るリスクの軽減措置などである(一部の人は、輸血からくる人→人感染のリスクの検討も要望していた)。

 つまり、これらの人々は、輸入品も含めた日本の消費者が現実に消費している牛肉・牛製品からくるリスクの軽減措置の検証により、これらの安全性が本当に確保できるかどうかを知りたがっているわけだ。多くの人がこのような検証を期待したのは、調査会のテーマが「日本におけるBSE(牛海綿状脳症)対策」の再検討ということなのだから当然だろう。筆者もそのように期待していた。ところが、「たたき台」は、国産牛に対して日本が取った検査とSRM除去の措置の僅かばかりの検討を行っただけで、憶測に近いデータと不確実な知見に基づいて日本人のvCJD感染リスクは極めて微小という結論を引き出す数量的リスク評価に専ら焦点を当てている。これでは根拠の薄弱な数字が一人歩きするだけのことになり、このようなリスク評価は今やるべきことではないという意見が大勢を占めることになった。

 ところが、このような意見に対し、調査会専門委員は、食品安全委員会の役割は「科学的」なリスク評価を提供することにあると強調、多数の意見が求めるような広範な問題は不確定要因が多すぎ(BSEやvCJDには科学的にはよくわかっていないことが多く、また信頼できるデータも少ない)、とても扱えないと弁明するばかりだ。

 米国産牛については、今回の検討は「日本のBSE対策」を検証するものだから検討しない(日本の輸入政策は「日本のBSE対策」ではないとでも言うのだろうか)、科学的検証に耐えるデータもほとんどなく、今後も検討することはないとまで言明した(ならば、米国牛肉輸入再開は政府の自由だ)。多くの日本人は米国産牛を大量に消費してきたし、輸入が再開されれば同様に消費することになる。このリスク要因を無視して、日本人のvCJD感染リスクを評価することなどできるはずがない。

 また、調査会は、やはり不確定要因が多すぎて科学的でなくなるからと、今回の論議については「BSEのリスクについて、牛→牛、牛→人、人→人のうち、「牛→人」を最優先課題として議論を進めることを確認」したという(6月16日の第10回会合)。人→人の感染リスクはおくとしても、牛の感染リスクを除外してvCJD感染リスクを評価できるはずもない。

 「科学」の名においてこれらのリスク要因は扱えないと言うなら、今回発表されたようなリスク評価は最初から止めるべきなのに、こればっかりは最優先にやってのけた。お陰で、正体不明の一主婦は、「たたき台」のリスクは微小とする結論を報じた『朝日新聞』の記事を読み、子供に牛肉をふんだんに食べさせられなくて困りきっていたが、これでジャンジャン食べさせ、健康に育てられるようになったと言い出す。調査会座長も、これには大喜び、このようなリスクコミューケションをしてよかったと言い出す始末だ。科学の名において大多数の人々の希望には答えず、何も知らない(と装う?)消費者を騙している(これが言い過ぎだと言うなら、あんなリスク評価は即座に撤回してからにしてもらいたい)。

 ただ、消費者代表は、こんな子供騙しには簡単に引っかからないほどに進んできた。よってたかって焦点に仕立て上げられた「全頭」検査については、一定月齢以下の牛を検査から除外することによってリスクは増えないという「たたき台」の見解は「非科学的」だとか(そういう「科学的」根拠も不明だが)、全頭検査は消費者に「安心感」を与えてきたのだから、リスク管理と科学は別ものだと主張して、全頭検査の継続を主張する見解も陳述された。

 だが、一部の人は、現在の検査には限界があるかもしれないが、もっと精度の高い検査が開発されつつあり、それを導入して全頭検査を続けるべきだと主張した。これは明らかに、全頭検査に科学的根拠を与えようとする見解だ。このような主張に対し、一専門委員は、そのような検査が開発されるかぎり、当然そうすべきだと答えていた。だが、現在の検査も既に精度は非常に高く、これを大きく凌ぐような検査は、当面考えられないといった口ぶりであった。例として上げられたのがプルシナー教授の開発した検査であり、主張されるこの検査の精度には疑義があることが背景にある()。もう一つ、現在ほどの精度の検査で発見でいない感染牛の感染性は弱く、SRM除去で安全は確保できるという考えもある。筆者は、最近開発されたという別の検査(参照:血液検査による異常プリオン検出に希望―新たなBSE検査法、英国企業が発表,04.5.26;心臓の鼓動でBSE検査、英国研究者が開発 早期発見が可能に,04.6.8)の検討の可能性を聞こうとしたが、傍聴者との質疑のために与えられた時間は余りに少なく、発言できなかった。

 しかし、全頭検査を主張する人々すべてに共通するのは、最初に述べたようなリスク軽減措置が有効に実施されているかどうかを疑っていることだ。この疑いは、日本についてもあるが、米国については一層強い。だからこそ、その点の検証を要求したのだが、食品安全委員会がこれに応えられないことも明白になった。科学の名においてそれができないならば、リスク管理を担当する行政が適当に事を進めることになるのだろう。それでは、BSE問題は、いつまで経っても消費者の頭を離れない。

 意見陳述者のなかには、全頭検査にかけるコストは巨大、そのために安全を脅かすもっと重大な他の問題への取り組みの足を引っ張っていると、コスト−便益分析を行って全頭検査の問題に早々と決着をつけろ主張する人がいた。だが、現在のリスク管理が万全と確認されないかぎり、多くの消費者はこれには納得しないだろう。BSEには解らないところが多いとはいえ、政府が万全を期しさえすれば、消費者が一定の安心を得るというレベルでのBSE問題解決は簡単なことだ。鳥インフルエンザのような、解決の糸口さえ見えないような問題ではない。

 だが、現在の政府の態度では、これはいつまで経っても解決しないだろう。BSE清浄国、BSEはありそうもない国と認定されるまで待たねばならない。それには、肉骨粉が禁止されてから、BSEの最長潜伏期間とされる7−8年の間に新たなBSEが発生しないことが条件となる。わが国では、肉骨粉禁止後に生まれた牛にBSEが確認されたから、BSE清浄国と認定されるのは、早くてもそれから7−8年後のことだ。おまけに、この問題は日本国内だけの問題ではない。

 筆者も、大洪水、猛暑、深刻な旱魃の頻度が増し、地球と人類の終末さえ予感させる地獄絵を世界中にもたらしている温暖化問題などを見ると、BSE問題から一刻も早く逃れ、もはや手遅れかもしれないが、このような問題に本格的に取り組みたいと焦っている。だが、これは当分は許されない状況のようだ。

 (注)この検査は構造依存性免疫検査法(CDI)と呼ばれるもので、従来の検査法のように蛋白質分解酵素(プロテアーゼK)による処理をせず、プリオン蛋白質の構造により異なる抗体との結合性の違いを利用して異常プリオン蛋白質を検出する。異常プリオン蛋白質の中には蛋白質分解酵素により分解されるものもあるとされ、従来の方法では分解されてしまうかもしれない異常プリオン蛋白質も検出できる、従って現在の検査では発見できない低レベルの異常プリオン蛋白質の存在も検出できると主張されている。つまり、現在の検査よりも「感度」が高く、より若い牛の感染も発見できるというのである。

 しかし、この検査が実際に従来の検査よりも感度が高いのか、どれほど高いのかについては確証がない。EUの科学運営委員会は03年、EUでの実験結果に基づき、この検査が従来の検査と、少なくとも同等の感度をもつことを認めた。これに従い、欧州委員会もこの検査を承認した。しかし、この研究は「感度」そのものの確認を目的としたものではなかった。その研究は今後の課題とした。英国でも、羊のBSEとスクレイピーを見分けることを主眼にこの検査の検証が進行中であるが、必ずしも「感度」を高めるための有力な方法とは考えられていない。感度をより高めるためには、他の方法による異常プリオン蛋白質検出方法や、プリオン病の他のマーカーの利用による方が有効な可能性がある。

 プルシナー教授の方法は、特定の検査開発企業との直接な経済的利害関係があり、彼の主張が自分の利益に結び付いているという見方さえあることも指摘しておきたい。CDIそのものを否定するつもりはないが、ノーベル賞受賞にいたる経緯からしても、彼の主張はよほど用心深く受け止める必要がある。