-+『第十四楽章と第十五楽章のあいだの間奏曲』(4)+-

第十四楽章と第十五楽章のあいだの間奏曲

(4)









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 埠頭。
 ことん、と日傘を足元に置いた。
「オリンには聞こえているはず」
「え? 何が?」
「聞こえるはず」
 す、と手を広げて。

    ら――らら―――、
       ららら――ららららら―――。
     ら――ら――ららら――――ら――――…
         ら――ら――ららら――ら――……。


 きれいな声だ。
 美しい歌声だ。
 …間違いなくそう思うのに、…なのに、なぜか。
 どこか。
 音程が狂ったわけでもない。なのに、なぜか。

「…ひびかないの」
 ぽつりと久遠が語る。
「オリン、きこえたでしょう」
「…何?」
「あの音色」

「D1アリア」

「あなたにはきこえているはず」
「……知らないよ」
 視線を逸らして、ぶすっと答える。
 不意に久遠の体が、ぐらりと傾いだ。
 えっ、と思ったその瞬間。バシャンという威勢のいい水音と共に、なんと久遠は海へ飛び込んでいた。
「久遠!!」
 ライフモジュールがなければ命に関わる体だというのに、海にいきなり飛び込んだりしたらどうなるか。咄嗟に飛び込んで助けるべきか、 人を呼ぶべきか逡巡する。
 が、当の久遠は水面から顔を出して、にこっと微笑んだ。
「きもちいいわ」
「………」
 がっくりと気が抜けてしまって、ふぁあ、と間抜けな息がこぼれ、同時にしりもちをつくみたいに座り込んでしまった。
「…びっくりさせるなよ…」
「一度やってみたかったの」
 海から出ようしない久遠を引き上げようと、埠頭の縁に近づいて手を差し延べる。
「だいじょうぶ。そろそろ終わるはずだから」
「え?」
 何の事だろう、と眉を上げて尋ねるけれど、久遠はふっと海の彼方へ視線を投げた。

「おわって、はじまるはずだから」


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 しまった。
 おなかが痛いとか頭が痛いとか言って、保健室に行けばよかった。
「がんばってー、あと二周!」
 体育の先生が、ピッピッ、と笛を吹く。

 どきん、どきん、と走っているせいではない動悸が妙に大きく響いて聞こえる。
 どうしよう。
 どうしよう、もし転んですりむいたりしたら、言い逃れできない。見つかってしまう。
 青い血が。
 どうしよう。
 どうしよう。
 答えは一つだけ。この時間を、怪我をしないで乗り切ればいい。靴紐はちゃんと結んであるんだから、ほどけて紐を踏んで転ぶような ことはないはず。だから、このまま、何事もなく走りきれば、それで大丈夫。
 大丈夫。走るのは苦手じゃない。得意でもないけど、でももうちっちゃい子供じゃないんだから、何もないグラウンドで転ぶようなこと、 ない。
 大丈夫。落ち着いて走り切ればいいんだから。
 大丈夫。
 そう自分に言い聞かせて、走り続ける。
 とにかく走ればいいんだ。ただそれだけなんだ。

 どきん、どきん、どきん。
 たったそれだけの簡単なことでいいはずなのに、うるさい心臓は鳴り止まない。
 落ち着けって何度も頭の中で叫んでるのに、鳴り止んでくれない。
 いつもより体がかたくて、足が上手く動かない。

「あっ!!」
 くんっ、と足が引っ張られてバランスを崩した。

 迫ってくる砂の地面。無意識に手が伸びる。体を守るために、手が。
 だめ。
 手のひらの皮が剥けて、血が出たりしたら。

 いやに時間が遅くて、映画のスローモーションみたい。
 足元が見えた。あんなに硬く結んだと思っていたのに、靴紐がほどけていて、案の定自分でそれを踏んでしまっていた。

 だめ。
 膝を擦り剥いたりしたら。
 血が。
 血が。
 血が。

 ばれちゃう。
 青い血が見られちゃう。
 殺されちゃう!!!

「いやあああああああ!!!!!」

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「朝は何を食べたの?」
「えっと、調理パン…ソーセージののっかったやつ」
「そう。悪くなってなかった?」
「それは…多分ないと思います。昨日お母さんが買ってくれたヤツだから」
「…そんなに痛い?」
 先生、と呼ぶよりも、お姉ちゃん、と呼んだほうが違和感のない保健室の先生。こくこくと頷いて背中を丸める私を見て、うーん、 と腕を組んだ。
「……わかったわ。薬飲んで、しばらく横になってらっしゃい」
「はい」
 ホッとして、差し出された薬とコップを受け取る。薬は白い錠剤で、家にも置いてある子供用の消化剤だった。
 何でもないのに飲んでも大丈夫かな、とも一瞬思ったけど、それより青い血がバレるほうがイヤだ。迷わずに口の中に放り込んで、 コップの水で飲み下す。
 二つあるベッドの奥のほうを選んで、靴を脱いでもぐり込み、カーテンを閉めた。

 ほぅ…、と、さっきよりも長いため息がこぼれた。よかった、これで体育の授業は休める。
 今日は確か長距離走とか持久走とか、とにかく走りまくる授業だったと思う。もし走ってる間に転んだりしたら大変だから、今日は サボッてしまうことに決めた。
 次の体育は、どうしようかな。
 体育館でやる授業だったらいいな。
 体を動かすのは嫌いじゃないもん。
 ………。
 ………。
 あ。

 しまった、すっごい暇。二時間目終わるまで、どうしよう。眠れるかな。


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「ちょっと〜ぉ、ねえ綾人!」
 からん、とラムネのビー玉を鳴らして、恵が布団の傍にしゃがみ込む。
「起きてんでしょお〜! 返事くらいしなさいよ! ていうか、いつまでゴロゴロしてんの?」
 枕元で言ってやるが、反応がない。
「……ね〜、あたしさぁ〜、今度、試験受けることになってね? それに受かったらさぁ〜! ………ねーちょっと、綾人ォ?」
 何の反応もない綾人に苛立ち、恵はゆさゆさと肩を揺さぶる。
「聞いてんなら返事くらいしなさいよ! …まさか、ホントに寝てんじゃないでしょうね! こら綾人!!」
 ばさっ、と描け布団を取り去る。
「………」
 ムスッとした顔で、綾人は目線だけを恵に送った。
「何よ、起きてんじゃない。も〜いい加減布団から出なさいよ〜、何時だと思ってんの?」
「…」
 むっつりしたまま、布団の上に座る。
 服は昨日着ていた普段着のままだ。

「…お前も、知ってたんだろ」
「は?」
「知ってたんだろ。……あのこと」
「…何のことよ」
 きょとんとしている恵。だが次の瞬間、ぱっと顔を輝かせた。
「ねえねえ、それよりさ! あのね、実はあたしさぁ」
 苛つく。

 綾人は立ち上がると、そのまま部屋を出ていく。
「あっ、ちょ、…ちょっと! こら綾人!! 人の話は最後まで聞け〜!」
 無視の見本かと言ってやりたくなるくらいの見事な無視具合で、そのまま居間へ行ってしまった。
「……なによ、あいつ! ったく」
 ぶすっと唇を尖らせて、残っていたラムネを飲み干す。



 誰も居ないことにホッとして、冷蔵庫を開けた。
 作り置きのお茶のボトルを出してコップに注ぎ、一気に飲み干す。
 それから、パンでも焼こうか、茶碗にご飯をとって漬物で食べようか、でも準備するのも片付けるのも面倒くさいな、なんて思いながら ぼーっとしていると、背後から足音。
「綾人くん? 起きてるの?」
 きゅっと唇を引き結んで、声の方向から顔を逸らす。
 足音は一瞬止まったが、改めてゆっくりとこちらに向かってくる。
「やだ、ほんとに起き抜けじゃない。先にシャワーでも浴びてらっしゃいよ。朝ご飯、作っといてあげるから」
「………いいよ。別に」
「いいことないわよ、朝ご飯てね、一日の原動力なのよ? 晩ご飯より大事なんだから」
 まるでいつもと変わらないように、遥は台所へ入ってきた。
「う〜んと…。あっ、いいのが残ってるじゃな〜い♪」
 横から冷蔵庫をのぞきこんで、貝柱の串焼きや焼鳥の残り物を盛った皿を出し、ラップを剥がした。
「今温めるから、そっちで待ってて」
 ね、と笑いかけてくる。
 綾人はむすっともせずに、黙りこくったまま居間へ移動して、台所に背を向けるように寝転んだ。

 見たくない。
 遥さんの顔なんか見たくない。あんな、無理にいつもどおりに振舞うような顔も見たくない。
 話なんかしたくない。

 背中に刺さる視線は微かな痛みを感じさせたけれど、彼女はすぐ、食事の仕度に取り掛かった。




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