かすみ
前篇
キラが持って帰って来た成績表を見て、母はふぅ、と溜息をついた。
「…まったくもう。お母さんのお古を仕立てなおしておいたのが無駄にならなくて、嬉しい限りだわ」
言葉とは裏腹に、呆れかえったような声。
当事者のキラは、何故か嬉しそうにニコニコしている。
「……キラ? 本気でアスランくん家にお嫁に行くーなんて言い出したら、お母さん泣くわよ?」
「は? …やだなぁ、何言ってんの? 僕男なんだから、お嫁には行けないよ」
「わかってるなら結構。…ほら、お風呂入ってらっしゃい。着付けてあげるから」
「はーい!」
嬉しそうにバスルームへ飛びこむ息子を、半ば諦めたような視線で追い、彼女はまた一つため息をついた。
事の発端は、キラとアスランのちょっとしたケンカ。…いや、ケンカという程大袈裟なものではないのだが。
アスランと一緒に勉強していた時にはあっさり問題集を一発全問正解して彼を驚かせたキラが、前回同じ科目のテストで赤点ギリギリの
成績だったことが、最初といえば最初。
キラはできるのにやる気を出さないといつものお小言が始まり、どうして本気でやらなかったかと問えば、「だってあれ面白く
ないんだもん」。ここでいつもならお説教が始まるのだが、今回は「じゃあなんでこの前のドリルはちゃんとやったんだ? 同じだろう?」
とアスランが問い返した。
その言葉にキラは、「だってあの時は、アスランが全問正解だったら一緒に映画見に行こうって言うから頑張ったんだよ」と素直に
答えた。
そこにピンときたアスランは、賭けを提案した。次のテストでアスランより高得点を出せばキラの勝ち。同じ点数でもキラの勝ち。その
時はキラの欲しがっていた新作ゲームソフトをプレゼントしてあげる。但しアスランよりも低かった場合は負け。罰ゲームとして、一緒に
遊びに行く約束をしている夏祭に、キラは女物の浴衣を着てくる事。
キラがこの新作ソフトをどれだけ楽しみにしているかは知っているし、さすがに十三歳にもなって女物の浴衣は着たくないだろう、と
睨んだアスランだったが、見事にその目論みは失敗に終わった。
「うわっ、苦しー! 母さん、これじゃなんにも食べられないよ〜」
「しっかり締めないと、ほどけてきちゃうでしょう? これでも少しゆるめにしてるのよー?」
「えぇ〜? …ねえ、それに、何? この胸んとこにくっついてるの」
肌襦袢の胸の部分にくっつけられた、小さな布のクッションをぷにぷにと押して尋ねると、母はまた一つ溜息をついた。
「女物の浴衣を着た男の子と一緒に歩くんじゃ、アスランくんが恥ずかしいでしょう。ちょっとでも女の子っぽくね」
「はぁ??」
きょとんと目を丸くするキラに、母は思わずまた溜息をついてしまう。
ピンポン、とドアホンが鳴った。
「はーい」
言いながら出ると、アジア風の生地のズボンにチャイナシャツを着たアスランが立っていた。
「こんばんは」
「いらっしゃい! あら〜アスランくんかっこいいわね〜」
「あ…いえ…」
はにかみながら答える、藍色の髪の少年。おじゃましますと告げてから室内へ上がり、リビングへ入っても一言断る前に勝手に椅子へ
座ろうとはしない。礼儀正しくて、何よりあのキラの面倒をもう七、八年近くも見てくれている、とてもいい子だ。
「本当は、キラに合わせて浴衣にしたかったんですけど、うちにはなかったので…」
「ううん、似合ってるわよ♪」
にっこり笑ってそう答えると、くるっと奥へ顔を向ける。
「キーラー! ほら! もう観念して出てらっしゃい」
「だっ、だって〜…」
情けない声がリビングの奥のキラの部屋から響き、アスランは思わず小さく吹き出してしまう。
「元々罰ゲームなんでしょう? もういい加減観念なさい! ほら!」
すたすたとキラの部屋に歩み寄り、あっさり扉を開いてぐいっとキラを引っ張り出す。
「っ…………」
固まってしまったのは、本当に可愛かったから。
頬に熱が集まるのが、自分でわかった。
深い青へ上品に紫陽花を散らした浴衣と、鮮やかな若芽のような緑の帯。髪にはビーズ飾りのヘアピアスが散らされて、どこからどう
見ても本当の女の子にしか見えない。
固まってしまうアスランに、キラも顔を真っ赤にしてしまう。
「…そ、そんなにヘン…?」
「えっっ、いや、ヘンっていうんじゃなくて、その……」
「本当にねぇ…こうやって見てると、息子を産んだんだか娘を産んだんだかわかんなくなっちゃうわ」
「母さんっ!」
「はい、お小遣い。無駄遣いしちゃだめよ。なくさないように、ちゃんとアスランくんに持ってもらいなさい」
ポケットのサイフから紙幣を取り出して握らせてやると、キラはムッとして唇を尖らせる。
「もー! 母さんちょっと僕のこと子供扱いしすぎだよ」
「しょうがないでしょ〜? あんたまだ子供なんだから。それじゃアスランくん、よろしくね」
「あ、はい。行くよ、キラ」
「うん。いってきまーす」
当たり前のように手を繋いで家を出る二人に、母はやれやれとばかりに手を振った。
カラコロと女物の下駄を鳴らして歩くキラ。その手をひくアスラン。
「お祭り、今年はどこでやるんだっけ?」
まるっきり女の子なキラが、大変可愛らしい顔を向けてアスランに尋ねる。
「ほら、あの桜並木のところだよ。今年から花火が上げられなくなったから」
「…つまんないな〜…」
「戦争なんて、起こるわけないのにね」
「うん」
大人の事情はいつも子供のささやかな望みを置き去りにしてしまう。
あーあ、と呟いたところで、ふと顔を上げる。
祭りの会場へ向かっているのだから人が増えるのはいいのだが、なんだか妙に見られているような気がする。
「………ねえアスラン、なんか…僕達、見られてない?」
「…うん。まあ、そうかな」
アスランはそう言葉を濁すが、さっきから聞こえていた。
あら、あの子達可愛い、お似合いねぇ。あれっ、アスランのヤツ彼女いたのかよ。激カワイイじゃん。あいつ誰だよ、キラに似てるけど。
そんなひそひそ声が。
ぎゅ、っとキラの手を強く握った。
キラは僕が守るんだ、とそう決意を新たにして。
ライトアップされた並木道に、立ち並ぶ出店。
香ばしい香りに、甘いにおい。
「あっ、ねえねえアスラン、わたあめ半分こしようよ!」
「こら! まだ林檎飴食べ切ってないだろ? どっちもとけちゃって大変なことになるぞ!」
「えぇ〜っ、いいじゃんかーどっちかアスランが持てば」
「だったらラムネとかき氷を先に片してくれない? これでどうやって林檎飴やわたあめまで持てっていうんだ」
中途半端に中身の残ったラムネのびんを左手に、つい今買ったばかりのメロン味かき氷を右手に持っているのを指し示して、苦言を
呈するアスラン。
「アスランならできるって」
「無茶言うな!」
ちぇっ、と呟き、休憩用の臨時ベンチに腰掛けるキラ。アスランも、その隣に座る。
「キラ、足大丈夫? 鼻緒ずれとかしてない?」
「うん、平気」
答えながらかき氷を受け取り、かわりに林檎飴を渡す。
ひょいっとかき氷をすくって、アスランの口先へ。
「アスラン! はい、あーん」
「っ」
一気に氷が溶けてしまいそうな勢いで、顔を真っ赤にしてしまう。
元々キラは可愛らしい顔立ちだが、こうなると本当に実は女なんじゃないかと思ってしまう。しかも、その方が納得できそうな気がする
のはなぜだろうか。
「キラ! もう、くれるなら自分でとるから」
「だめーっ、ほら口あけて!」
…お前、天使だか悪魔だかはっきりしてくれ。と言いたい。
これはもう聞かないなと観念して、アスランは小さく口を開いた。
するりと冷たいものが口の中へ滑り降りて、メロン香料の香りをさせながらとけてゆく。
「えへへっ」
やたらと嬉しそうなキラの笑顔。そして、大盛りにすくって今度は自分の口の中へ。
「なあ、キラ」
「んー? なぁに、アスラン」
こめかみを押さえてキーンとする頭を落ちつけようとしているキラに、ふとアスランが尋ねた。
「どうして今回のテスト、ちゃんとやらなかった? 欲しがってただろ、先週発売した『テイルズ・オブ・エターニア ネオレジェンド3』。
お小遣い使い切っちゃって来月まで買えないって、すごく悔しがってたじゃないか」
「…う〜ん…そりゃ欲しいけど〜…」
ほとんど水になってしまった緑色の氷を一気に口に流し入れて、ごくんと飲みこむ。
「やっぱり面白くなかったし」
がくっ。
「キラぁ〜…お前なあ!」
「それに、女の子の浴衣って綺麗だから、一度くらい着てみたいな〜って思ってたんだ。まさか母さんがこんなに気合い入れるって
思わなかったから、ちょっと恥ずかしいけどさ」
「…」
「さすがに来年になったらもう着れないと思って。今のうちにって。それにさ、浴衣着てアスランとお祭り行けるんだよ? なんかデート
みたいじゃんか」
「…っ…」
ぼんっ、と顔から火を吹いたような気がする。
「そしたら僕が女の子役だから、結局アスランがいろいろ買ってくれるわけだし」
「って、お前な〜!! 目的はそっちか!」
「えーっ、いいじゃんか〜二人で遊べるんだからー。それに母さんからもらったお小遣い、結局アスランに預けちゃったんだから
一緒でしょ〜?」
「…どういう理屈だ一体…」
やれやれと額を押さえながらも、結局甘やかしてしまう自分がいて。
ふ、とキラが空を見上げた。
投影型ドームには、地球から見るのと同じ星が点々と散り、夜を演出している。
去年まではドームの外で打ち上げる特殊花火の様子が、ライブ映像でありありと見て取れたのに。
「…花火、見たかったなぁ……」
「………」
淋しげな表情に。
何故か。
……心臓の中心が痺れる。
キラの顔なんて、見ない日はないのに。
一日の内のほとんどを、一緒に過ごしているのに。
初めてみるような、その顔から、何故か目が離せなくて。
不意に、キラが振り返った。
「…どうしたの?」
「えっ?」
弾かれたように、気付く。
「ぼーっとしちゃってさ、…あ、ひょっとして人込み?」
アスランは人込みが苦手だということをようやく思い出して、キラは少し申し訳なさそうに眉を寄せた。
人込みに酔うというほどではないが、しかし彼はあまり人口密度の多い場所を得意としていなかった。
「いや、そういうんじゃないよ、大丈夫。キラこそ疲れてない?」
いたわるように肩に手を置くと、…恋人同士が肩を寄せ合っているようで。
「…あ」
不意に近付いたアスランの気配。体温と、吐息に、びくんと心臓が跳ねるのを感じた。
…あれ? あれれ? なんで?
僕は男で、アスランもそう。一緒にいるのなんか今日だけじゃないし、いっつも冗談で抱き付いたりもするのに。…でもなんか、
いつもと違う。
…ドキドキするんだけど。なんでだろ?
なんか、女の子のカッコしてるからなのかな。あれれ?
顔も、熱くなってきちゃった。
「…キラ? そろそろ帰る?」
優しく気遣うアスランの声に、キラはぶんぶんと顔を横に振った。
「折角お祭りなんだもん、もうちょっと!」
すくっと立ち上がる。アスランは小さく微笑んで立ち上がり、半端に炭酸の抜けたラムネを飲んでしまってゴミ箱へ放った。
「なんか手ぇ洗いたいな」
「向こうの公園に水道あるだろ。行こう」
「あっ、待って待って、その前に僕紙風船欲しい!」
キラの手を取って公園へ行こうとするが、逆に屋台の方へ引っ張られてしまう。
「また? キラ、好きだね紙風船。毎年買ってるじゃない。万華鏡はもういいのか?」
「うん。万華鏡は自分で作れるけど、紙風船は作れないんだもん」
言いながら、昔のおもちゃを売る屋台へ向かう。
人込みの中を迷いなく一直線に進むところを見ると、さっき通った時に既にチェックを入れていたようだ。
本当に、自分の好きなものには正直なんだから。