映画「蒼き狼〜地果て海尽きるまで」感想 史実こき下ろし編 日記07,3,9 |
いやぁ〜、意図したわけじゃないんだけど、いろいろ書いてたら結果えらいこき下ろしちゃった。 史実こき下ろし編です。 映画はエンターテイメントですから、史実と違ってたって全然構わないわけですが、 (というか、史実通りにやるととてもツマラナイものが出来ます) それでも気になるのが歴史オタクのサガと言うもの(笑υ) 嫌だと思う人は読まないで下さい。 これもう何度も言いましたが、よそではあまり誰も指摘してないようなので、もういっぺん言っていいでしょうか? あの青い衣装を考え出した美術色彩担当くたばれ。 完全草木染の時代に、何で染めたらあのファンキーブルーになるのよ? そりゃ歴史とエンターテイメントは違うけど、せめて素直にエンタにのめり込めるくらいには配慮して欲しいものです。 その旗に染め抜かれた白い鷹の紋章は、怪獣映画のラドンみたいだし。 胴体太くて重たそうで、空に投げ上げたら落ちてきそう。 一度定着民に取り込まれて紋章化されたあとの鷹って感じです。 軽やかに翼を広げ空を撃つ白い鷹の旗を見て、ヨーロッパのキリスト教徒は十字架と間違えたという話ですから、 本当はもっと十字に見える、スマートなもののはずなんですが。 (映画の中では狼ばかり言われますが、先祖が狼伝説はこのあたりの遊牧民に広く見られるもので、 現在のトルコもそう称してます。 チンギスさんちのキヤト氏族のスルデ(守護精霊ってとこかな)は鷹なので、チンギスの旗印は白い鷹なのです) 史実とエンタは違います。でもエンタとしても見た目かっこ悪いと思います。 これもいろんな感想で言われてたことでしたが、音楽の入れ方がダメでした。入れすぎ。 せっかくモンゴルの映画で、モンゴルでロケしてるんだから、もっと風の音や草原のざわめきを信じればいいのに。 「ここは風で聞きたい!」と思うところが山ほどでした。 何でシーンを一々人間の作った音楽で味付けする必要があるのか、 ヒツジの茹で肉を醤油やソースで味付けして気取った料理にしてるみたい。 塩でいいんだ塩で。つーか塩がいいんだ! 音楽自体もどこにでもありそうな感じで、あんなにこうるさかったのに、 今思い出そうとしてもワンフレーズも思い出せません。 昔のドラマ「蒼き狼」の「タ〜ラ〜ラ〜タラタラ、ダタララダンダン、チャラランチャララン、あ〜あ〜あ〜あ〜」ってやつは、 一度聞いたら二度と忘れられないのに。 (今知ってる人、頭の中流れたでしょう。 これ一度流れ始めると、しばらく頭の中回りっぱするので困るんだけど。それくらい印象深かった。) この映画では、血の塊を握って生まれたエピソードの変形で、テムジンの手に生まれながらの痣があります。 ジョン・ウェインがチンギスやった『征服者』でも、手の平に十字の赤い痣があることになっていて、私はその映画を見て、 生まれたとき血の塊を握っていたという、あとからでは確認しようもない話を重要視する東洋的(?)発想と、 誰がいつ見ても分かる痣を証拠と思う西洋的な発想の違いを感じて、とても面白かったのですが、 日本でもそういう設定になるって事は、日本人の発想も西洋化したということなのでしょうか。 なんか予告見たとき、痣が大きくなってるシーンがあったように思って、 「うお、ジョン・ウェインじゃなくてもののけ姫のパクリか?!」(パクリって言うな、オマージュと言え!) とたじろいだのですが、そんなネタではなくて一安心。 それとも試写会で不人気でカットされたのかな・・・なくて正解だと思うけど。 即位式のところで「ウラ〜、ウラ〜、チンギス・ハーン!」と皆でチンギスを讃えるシーンがあります。 この「ウラ〜!」が魂をテングリのもとへ送るときなどに使う掛け声で、中国や日本での「万歳」に当たるものです。 (「万歳」は字面みて分かる通り「私たちの王様、一万歳まで生きてください!」の意味で、 身分制度の厳しい中国では「皇帝万歳! 皇太子九千歳!」とか、千年減らして使われたりもします。シビアだよね〜。) そんで、この「ウラ〜!」が現在まで変形しながら生き続け、 私たちが運動会などで使う応援の掛け声、「フレ〜!」になったのだそうです。 私も本で読んで知ったときはびっくりしました。 「フレ〜、フレ〜、あ・か・組・み!」がモンゴル語(起源)とはね。 こんなこと一般の観衆が知ってるわけないけど、私は見てて 「わー、ウラ〜! って言ってるぅ〜・・・」 と感無量でした。 歴史オタクの特権だね!(笑) このシーンといえばもう一つ。 私は森村誠一の小説は読んでませんが、ビジュアルブックに寄せたエッセイで 「史料には残っていないが、チンギスは即位式で人民に対して呼びかけたはずだ」と書いてます。 小説にはきっとこのシーンがあるのでしょうね。 映画の中でもこの即位式の反町チンギスの演説はクライマックスの一つですが、この映像を見て私は、 「あ、なるほど、演説なんかしなかったんだ。」というのがよくわかりました。 あの壇上で個人がどんなに声を張り上げたところで、後ろの最後の一人にまで聞こえるわけがありません。 マイクも拡声器もない時代です。風だってゴウゴウ吹いてる。 演説なんてもんは所詮、伝えたい人々が声の届く範囲にいる場合にのみ有効なものです。 「(演説が残ってないことで)チンギスは自分の身内ばかりを思い、人民のことを考えなかったとする説もある。」 と森村氏は言いますが、あの即位式で演説なんぞぶったら、 それこそ手前の身内席にいる人達にしか聞こえず、人民を無視していることになりゃしませんか。 ちなみにこのシーン、陳舜臣氏はほとんどスルーしてるし、 井上靖ではちょっとなんか喋りますが、人民はすでに盛り上がってて聞いちゃいません。 だいたいチンギスの演説の内容も、釈迦に説法みたいでした。 あんたねぇ、聞いてるのは遊牧民だよ? 農耕民に「種を撒いたら芽が出ました」と言ってるみたいなんだもん。 こういう発想しちゃうあたり、森村誠一はやっぱり歴史小説家じゃありませんね。 素直に現在の便利を駆使して推理小説書いてて下さい。 でも、もう一つ分かったことがあります。 声は聞こえなかっただろうけど、高い壇を組んでそこにチンギスが登ったなら、どんなに最後尾の人にでも、 チンギスの姿が、もしかしたらその表情までが見えたってことです。 地平線の民の目に、2.3kmなんて距離は視力検査みたいなもんですからね。 チンギスが人民の前に姿を現し、皆に向かって手を上げる。 前の方の役割の決まった人たちが「チンギス・ハーン!」と即位名を合唱し (何人かの合唱なら、いくらか遠くまで届くでしょう)、人民たちは「あ、チンギス・ハーンって名乗るんだ」と理解して、 『チンギス・ハーン!』と新しいハンの名を呼んで讃える。 こういう式典にこれ以上のことが出来たとは思えないし、これ以上のことをする必要もないと思います。 演説なんかしなくても、遊牧民のハンが民衆に約束したことは決まってます。 「これからちっぽけな部族間抗争はなくなる。大きな戦争が主催され、沢山の戦利品を得てそれが民に分配される。」 これはチンギスも民衆たちも、言われなくてもわかってること。だから演説など必要ないのです。 後は各々集まって、楽しい気持ちに浮かれるまま相撲とったり酒飲んだり弓矢の勝負でもすればいいんです。 (ナーダムじゃん。ナーダムでしょうよ。) なーんて、ここまで検証してきてなんですが、史実にはこういう即位式があったと書かれているわけではありません。 部族長を集めて大クリルタイ(部族長会議)が開かれたことは確かですが、 『元朝秘史』も『集史』も、非常にそっけない書き方です。 (叙事詩である『元朝秘史』でも、盛り上がるのはこのあとの論功行賞のシーンで、式典があったことなど書いてません。) このクリルタイは結果が決まっている(まぁほとんどのクリルタイがそうだったんだろうけど) セレモニーだったから、そのあとでなんか式典めいたことはやったかもしれませんが、 集まった部族長たちが全員部民をつれてきてたわけでもあるまいし、そんなに沢山人が居たわけではないのだと思います。 本当に、現在のナーダムみたいなことをちょっとやったくらいなんじゃないですかね。 でも映画でそれではさみしいからね(笑) だからシーン自体に文句があるわけじゃありません。(ちょっとフォロー) あーそうそう、戦争の話が出たついでに言いますが、この「蒼き狼〜地果て海尽きるまで」を撮る前に、 カドカワ映画が「男たちの大和」を撮ったことは、この映画にとって大変不幸なことでありました。 俳優もスタッフもかなり流用されて、そのとき培った考え方や経験が抜けてないから、 「戦争は不幸で悲惨なもので、誰もやりたいなんて思ってない。 人々は早く戦争のない平和な世界にしてもらいたいと思ってる。」と思ってます。 日本の太平洋戦争と、モンゴルの戦争を、一緒にしないでもらいたい。(フゥ) モンゴルたちは殺し合いはゴメンだと思ってるけど、戦争は武勇を示す場であり、 何より豊かな戦利品を得るための、ある意味産業みたいなもんです。 「この人についてれば戦争に勝って多くの戦利品が得られる」と思うからついてくるので、 得にならないと思えばすぐに見捨てて逃げちゃいます。 自分のヒツジ追ってるより多くの利益を得られるんじゃなくて、なぜ戦闘に参加する必要がありますか。 (だから遊牧民の帝国はどんなに大きくても、首長の代替わりとか何かのきっかけで一気に瓦解したりします) こういう考え方を、参加スタッフ誰一人持っていません。 角川が集めたブレーンはみんな畑違いのにわかモンゴルで、プロの話をまるで聞いてない。 (パンフには先生2人に文を寄せてもらってたけど、映画には噛んでません。 パンフの箔付けに呼ばれただけみたいで、正直あそこだけ浮いてた。) もちろん史実とエンターテイメントは違うけど、ボタンを最初から掛け違ってるので、 映画に流れる哲学が散漫になってしまってます。 これじゃエンターテイメントとしても盛り上がらんわな。 角川春樹、自称チンギス・ハーンの生まれ変わりねぇ・・・しゃらくせぇ。 最後の金に攻め入るシーンで長城の遠景が入るけど、なんか変だなと思ったら、CGだそうですね。 リアルを追求するって言うなら、「ほぼオールモンゴルロケ」になってもかまわないから、 内モンゴル自治区へ行って本物の長城の遠景を撮るべきでした。 (だいたい、現在のモンゴル国でなきゃモンゴルじゃないって言うのか。 長城の北は本来モンゴルだよ。(←危険思想?) 発想が小せぇよ。) これじゃ映像より宣伝文句を優先させたようでいただけません。 もっとも、あのレンガ造りの立派な長城は、明代のものですけどね。 (つまりバリバリ対モンゴル仕様。遊牧民なんて甘い括りじゃなくて、対モンゴル。 来るなモンゴル。来ないでくれモンゴル。) どうせCG使うんだったら、学者つかまえて土壁タイプのを再現してくれたら拍手したけど。 見栄えがいい方がいいか。でもそれなら本物使え。 言いたいこと言ったら、こりゃこき下ろしですね。ははは。 だって、誉めるところがなかなかないんだもん。 でもこの映画見て、ちょっとでもモンゴルに興味もってくれる人が増えたら嬉しいし、 そういう意味では、とても異議がある映画製作でした。 ・・・もっと面白ければ言うことはなかった・・・(やめんか、フォローでまとめたのに!) |