砂時計
蘇生
(1)
宇宙という虚空を泳ぐことに、恐怖など感じなかった。
目指す先には、キラがいるのだから。
「…………キラ」
そっと肩に手を添える。
彼も泣いたのだろう。ヘルメットの中には、首から下げられたリングと共に、大粒の涙がふわふわと浮いていた。
「…終わったな。…いや…やっと始まったのかもしれない…」
おそらくはこのまま、臨時最高議会から正式に停戦協議が申し入れられ、それを地球軍が受け入れる方向で話は進むだろう。
ザフトの最終兵器ジェネシスはジャスティスの自爆によって破壊され、禁断の核兵器を搭載した地球軍のピースメーカー隊は全滅、
月基地も既に無い。ザフトも地球軍も、既に満身創痍だ。
これ以上戦っても意味がないことは、誰もが判っている。今のこの場は、ただ疲弊しきった戦いの跡地でしかない。
だが、拘束されていたアイリーン・カナーバが逆に強硬派を拘束し臨時最高議会を率いたばかりで混乱しているプラント政府と、宇宙を
舞台とした戦いの悲劇を情報でしか知らぬ政治家だけが地球に取り残された状態の地球連合とでは、終戦協議がどうなるのか想像もつかない。
完全な終戦へむけて、自分達はまだ戦わなければならない。
今度は、敵ではない人々と。
ほんとうにナチュラルとコーディネイターが手を取り合える日が訪れるまで、自分達にはまだ役目がある。
だから、エンドマークはまだ打てない。終わりにはできない。
「…キラ?」
―――――――できないのに。
「キラ? ………キラ! …キラ!!」
彼はアスランの声に応えなかった。
「キラ!! アスラン、カガリさん!」
エターナルに着艦する、ボロボロのストライク・ルージュ。
ラクスはバルトフェルドとキサカにプラント臨時議会や地球軍との話し合いを任せ、モビルスーツ収容庫まで来ていた。
ストライクのライフルとシールドを借りて出撃していたイザークも、三人がエターナルへ着艦すると知って、アークエンジェルではなく
エターナルへ降り、三人を待ち受ける。
ふわり、と二つの影がコクピットから降りてきた。
キャットウォークへ降り立とうとしているキラとアスラン。ラクスは待ち切れず床を蹴って、一足先に二人へ近付く。
アスランは、キラを抱き締めて離さない。
そのまま、低重力に任せて降り立つ。
…キラの体を横たえて。
「……………キラ?」
ラクスの声が弱弱しく響く。
体を横たえられたキラは、ぴくりとも動かない。
彼を抱き締めているアスランの肩が震えるだけ。
…思わず息を飲むイザーク。
「……キラの顔を見せて下さい」
穏やかなラクスの声に、アスランはびくっと肩を揺らした。
それからゆっくりと、まず自分のメットを取る。
はっ、とイザークが息を飲んだ。
涙でぐしゃぐしゃになったアスランの顔など、初めて見るのだから無理もない。ニコルの時でさえ、人のいるところで感情を乱したのは、
ロッカールームで自分に怒鳴りつけたあの時、ただ一度だけ。
それが、人目もはばからずに顔を歪め、涙を流している。
アスランは複雑なイザークの視線に気付いているのかいないのか、そのままキラのメットを外した。
ふわりと漂う、首からかけられたラクスの指輪。
どこか哀しげに閉じられた瞳。
そっとラクスが頬に手を添える。…まだ、暖かい。
パイロットスーツを緩め、するりと首筋へと移動する手。指に少し力を添える。
キラの脈は、止まっていた。
「…そんな……! キラ…!!」
堪らずキラの胸に顔を埋めるラクス。
アスランは悔しそうに表情を歪ませ、ラクスから顔を背ける。
流しても流しても、尽きない涙。
「キ…ラ……っ!!!」
ぎゅっと握り締められたアスランの手。漂う涙の粒。
『イザーク、あいつら戻ったのかよ!? おい!』
「!」
パイロットスーツの手首部にある通信機から飛び込んできたディアッカの声に、ハッと我に返るイザーク。
「あ、ああ。…アスランと、ストライク・ルージュのパイロットは無事だ。だが…」
『…!? おい、キラがどうかしたのか!?』
『キラ? あの、キラは!?』
恐らくミリアリアのシートからのアクセスなのだろう。途中から彼女の心配そうな声も飛び込んでくる。
「……フリーダムのパイロットは…」
「キラは死んでないっ!!」
ヒステリックな声に視線を上げると、ヘルメットを取ったカガリが、キラの傍に降り立っていた。
「死ぬもんか!! まだっ、あたしたちはまだこれから!! やっと…やっとここまできたのに、こんなところでキラが死ぬわけない!!」
強引にアスランとキラの間に腕を割り込ませて、ぐいぐいとキラの体を揺さぶる。
「キラ!! 起きろキラ!! 冗談にしてもたちが悪いぞ!! キラ!!」
「カガリさん…」
「キラぁぁぁっ!!!」
泣き叫び、どんなに揺さぶり、胸に拳を打っても。
キラが目覚めることはなかった。
『…嘘だろ…キラ…』
呆然としたディアッカの声。その背後からはくぐもった泣き声。さらに遠くから、彼の名を呆然と呼ぶサイの声が微かに響いた。
『…キラくんは…死んだの?』
思いのほか冷静なマリューの声に、イザークは短く、ああ、と応えた。
『外傷は? どんな状態なの』
「…外傷は見当たらない。…何故そんなことを聞く?」
『ジュール隊長、キラくんをエターナルの医務室に収容するようにラクスさんに伝えて』
「何?」
『キラくんにはまだ蘇生の可能性があるわ。バルトフェルド艦長、進路をメンデルへ』
奇妙なマリューの言葉に、イザークは一瞬眉間にシワをよせてしまうが、とにかく泣きじゃくっているやつらに知らせてやらねばと、
地面を蹴って近寄った。
蘇生の可能性がある、というマリューの言葉を伝えるために。
何故メンデルへ、とは、誰も尋ねなかった。
蘇生の可能性がある――――。その言葉は、アスランは勿論女性陣に対しても、とてつもない特効薬として響いた。
艦の状態がボロボロであるにも関わらず、すぐにメンデルへ向かうよう指示を出すラクス。バルトフェルドは一瞬面食らったようだったが、
ラクスとマリューの双方から簡単に事情を聞くと、一分一秒でも惜しいとばかりに動き出す。
三艦は揃って、メンデルへ向かった。
その選択に意義を唱えるものもまた、一人も居なかった。
キラに生きていて欲しい。キラにここで死んで欲しくない。
その思いは、皆一つだった。
「……ムウ…」
目の前で自分を守って散った愛する男の名を呟き、彼の遺した記録アルバムを手に取ってぱらりと開く。
彼自身の手でメンデルの遺伝子研究所から持ち帰られたものだ。
そこから、幼い日の彼の写真を一枚抜いた。
その下から現れる、細かい文字。
厳しい表情でそれを読み、覚えてしまうように何度も何度も反芻してから写真を戻し、別のページを開く。
幼いムウが父親に肩車されている写真の後ろから一枚のディスクを取り出し、少しの間名残惜しそうに写真を眺めていたが、そこへ
不意にコール音が響く。
『艦長、キラくんの搬送準備が整ったそうです』
ノイマンからの艦内通信に、すっと顔を上げるマリュー。
「わかりました。すぐに向かいます。しばらく艦をお願いね」
『了解』
簡潔に答えて通信を切り、更に別のページを開いた。
キラが産まれた………人口子宮からこの世へ生まれ出た瞬間を記録した写真の後ろから、今度はIDカードを取り出して。
アルバムを閉じ、引き出しへ戻す。
そのまますっと立ち上がり、マリューはシャトル発着口へ向かって歩き出した。
これから自分が行うこと。その結果は、果たして誰かに喜ばれるものになるだろうか。
アスラン達にも、そして他ならぬキラ自身にも。
だが、目の前で失われた命には助かる可能性がある―――…それをわかっていて手を差し伸べずに見過ごすことなど、自分には出来ない。