【2001/10/22 月曜日 シガツェ】

うーー、かわいいかわいいテンジンホテルの女の子
・タシルンポ
朝起きる。すばらしい日の出だ。
今日はシガツェだ。
自転車で走り出す。まだまだ道が補修中だ。
このあたりの道は沼地のようになっていて、小川が横切っている。
それを補修で道の下に流れるようにしているのだが、
いまは、補修中ということもありいくつもの小川を越えている。
自転車で突っ込む・・・。
見事に途中で足をついてしまった。
やはり無理はだめだ。
サンサン以来久しぶりにチベットの川に足をつけた。
なんだかなぁ・・・。
走っていると、いきなり道が良くなる。
舗装路だ。こんなときだけ文明の凄さを思い知る。
スピードが違う。
その後やっとシガツェへつく。
なつかしのテンジンホテル。小学生ぐらいの子も元気に働いている。
みんな元気だ。
少しの間なのにもう一度戻ってくることができて嬉しい。
ラサで約束した山ちゃんがいるかどうか宿を探すが、いない。
宿に、誰が泊まっていたか、宿帳(とまるたびにカードに住所などを
書かないといけない)を見せてくれといったが、
なんと、毎日公安が宿帳を取りにくるとのこと。
ここまで管理されているのか・・・。
中国は自由旅行ができるようになっても、いたるところで管理
されているのだ!!
多分、何かがあって先にいったのだろう。
僕のほうも遅くなったし仕方が無い。
またどこかで会いたいなぁ。
その後、問題の許可証をとりに公安へ行く。
なんか、すぐに旅行会社へいけとのこと。
一応「友達が前にここで50rsでもらっただろ」といってみたが、
だめだった「状況が違う」といわれてしまった。
結局、CITS(国営の旅行会社)へ行く。
話をしてみると、「期間は10日」
やばいなぁ、それだったらネパールへいけないよ。
それで一度「前、友達2週間もらえたよ」と言うと。
「それは少し前だろ」といわれた。
ここでも、テロの影響が・・・
出発したとき9/10におきたテロ
ここまで、僕の旅に関係がでてくるとは、
けれども、そのおかげでパキスタンへいく人がチベットに入り
いろいろな人に合えたという面もあるが・・。
こうなったら、許可証を取った日に出よう。
途中でつかまったらそのときはそのときだ。
宿に帰り、先に来ていた楠さんと会う。
久しぶりのベットは気持ちいい。あったかい。
楠さんに聞くと許可証取るときに「時間が足りない」といったら
2週間くれたよとのこと。
さすが中国、そのときそのときで状況が違う。
やってみないといけない。
明日、もう一度チャレンジしてみよう。
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【2001/10/23 火曜日 シガツェ タシルンポ寺院】

タシルンポへの巡礼者
・タシルンポ
今日はタシルンポを見に行くのと、許可証を取りに行く予定だ。
まず、許可証を取りに行く。楠さんも一緒にいってくれた。
期間の話をすると、公安に交渉してみないとわからないとのこと。
できれば2週間ほしい。
そのあと、タシルンポへ行った。
驚いたのが最初にチケットを買うが、それがCD-ROMだということ。
こんな標高4000近くのところで、CD-ROM(カード型)をもらえるなんて・・・
世界が狭くなってきているような気がした。
見た人によると、中国語と、英語でタシルンポの紹介が入っていたそうで
さて、タシルンポ寺院だが、チベットの第二の活仏パンチェンラマ
が住んでいた寺である。
パンチェンラマはダライラマとは違う道を歩み、チベットにいて
チベット人のために活動した人である。しかし、、中国政府により
軟禁状態にされ、その後プロパガンダに使われたと言う人である。
そのため、ダライラマはチベット本土では、写真すら売ることが禁止され
寺院でも掲げることができない、その反面タシルンポには
多額の中国政府のお金で新しい寺院を建てたりしている。
タシルンポは寺院としてお金をだし、ダライラマがいたラサのポタラ宮は
寺院としてよりも博物館にしようとしている。
そこに、本当に信仰している人の考えはない。
あるのは、国の思惑とお金しか感じることができない。
それでも、人々はポタラ宮も、タシルンポも同じように右回りに回る。
どんなに遠くからでも、服がぼろぼろでも祈るために訪れる。
遠くからくる人々の顔はラサもシガツェも全く同じだった。
宿に戻り、許可証を取りに行く。
やはり10日とのこと。仕方が無い、つかまったらつかまったときだ。
罰金を払えば大丈夫だろう。
その後、食料の買出しに露店へ行く。
夕日が差し込む露店は綺麗だった。
カメラを向けるとみんな笑っていた。
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【2001/10/24 水曜日 シガツェ-->ユロン・ラ手前】
・GO GO
シガツェを朝でる。
楠さんとスピードが違うので分かれる。
やはり、一緒に行動しているとぶつかることもあり
大変だが、分かれるときは寂しくなる。その反面
ほっとする。どっちなんだろうか・・・。
無事にみんな旅を続けてほしい。
さあ、これからまた一人だ。気合を入れなければ
楠さんとは、またエベレストで会おうといって分かれる。
その後、前回西チベットを目指したとき厳しかった検問が見えてきた。
今度はどうなるだろうか。顔は覚えられていないだろうが
何か言われるのではと思っていると、
「GO,GO」
おいおい、いいのか、パスポートも何も見ていないぞ
まあいいや、そこで飯を食べる予定だったのでトゥクパを食べる。
ゆっくりゆっくり自転車をこいでいく。
何回ペダルを回しただろうか。
峠まで行きたかったのだがいけずに今日は
テントを張る。
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【2001/10/25 木曜日 ユロン・ラ手前-->ラツェ】
・ラツェ
今日は大きな峠をひとつ越える、やはりほとんど押しだった。
なんか、押すのにもなれてきたが時速2km。
峠を下ると、すぐにラツェという街と思っていたら
なんと底から25km。あと2〜3時間・・・。
日本では1時間でいけるのに。
だんだん日が傾いてくる。
やっとついた。
前の宿屋に泊まる。
そこで、のんびりしていると、どこかで見た顔が
ラサであった、西チベットから逃げてきた一人
大賀さんのグループだ!!
宿を見に来ていたそうで、グループで
「ほかのところも見に行こう」ということになったそうで
去り際に「さみしいやろ」って笑って出て行っていた。
いやみの無い人はおもしろい。
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【2001/10/26 金曜日 ラツェ-->ラクパ・ラ手前】

ラクパ・ラにて
・ラクパ・ラ
今日は朝少し早く出た
このラサ-->カトマンドゥのフレンドシップハイウェイで
一番の峠があるのだ、それと、おそらく一番厳しいと思われる検問も。
峠の標高5200m、検問は西チベットとネパールの分岐点があるために
厳しいことが予想された。
出発
検問に行くと誰もいない。
部屋に入り「GO ティンリー(次の街)ok?」
といったら、またもや「go,go」
この違いは・・・戦争は終わったのか??
この道峠まで地図では18kmだった。
何とかいけるかなぁと思っていたら、なんと
実際は26Km。
ほとんど自転車を押して進む
まだ頂上が見えない。
今まで以上に体が重い。
日が暮れてくる、周りに氷が多くなってくる。
風景の中に茶褐色から白色が目立ってくる。
あと3km。日暮れまで後1時間。
道は崖でテントをはるための場所がない。
どうしようか。かなりもう寒い。
ヘッドライトをしてテントを張ることは避けたいし
どうしようかと迷っていると、崖の途中で1畳ほどのスペースが
そこしかない!!
荷物を降ろし、何度かに分けて降りていく。
テントを張る。
周りに、頭ぐらいのとがった岩がごろごろしている、
落ちてきたら終わりだなぁと思っていると、なんか楽しい気分に
なって来た。どうしてかはわからないが。
寒い・・・。今までは何とか寝ていたが
ほとんど寝れない。
いままでは、日暮れから2時ぐらいまで少し寒くなり
2時から明け方まで冷凍庫のような冷え込みになるのだが
今日は最初から冷凍庫のような冷え込みだ。
水を飲もうとする、まだ10時ぐらいだ。
けど、水に氷が張っている。
何度となく目がさめる、朝はまだだろうか
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【2001/10/27 土曜日 ラクパ・ラ-->チェ村】
・いろいろなチベット人
少し暖かくなってきた
やっと朝だ。長い夜だった。
のどが渇いた。高所で、乾燥しているので水が飲みたくなるが、
ボトルの水は完全に凍っている。芯まで凍っている。
崖を自転車を担いで登る。
このあたりはまだ日陰だ。後1kmで日向。
けど、その1kmが長い。
ゆっくりゆっくりと峠に近づいてくる。
峠まで後1km、休憩する。
とそこに、道路工事のトラクターが
チベット人の運転手が「どこからきたのだ」と聞いてくる。
話をしていて、お茶飲むかと言ってきた。
お湯をもらい水筒の氷を溶かして水を飲む。
朝起きてから初めての水だった。
峠はタルチョーがひしめき、風が心地よかった。
さあ次は、エベレストだ。
峠を下る。
途中からものすごい悪路に変わる。
途中で温泉がある村をとおる。
「サカン ドゥゲ(食堂ある?)」と僕
「ドゥ(ある)」といってついていくと
また普通の雑貨屋さんだった。
なんか、大人の雰囲気が悪い。
そのうちサングラス見せてくれと言ってきて
貸してあげると、「くれ」とのこと。
あほか!!
このサングラスは日本を出る前に
餞別で買ったものだ、お金もらってもあげるわけには行かない。
「NO」という言葉もきつくなる。
逃げるように出て行くが、出て行くと、子供が石を投げてくる。
腹が立った。振り返って怒鳴る。
何も言ってこない。久しぶりに純粋に腹が立った。
途中でまた検問がある、綺麗な建物だったので
やばいかなぁと思っていた、許可証の残りの滞在期間が
ネパールへ自転車で行くにはぎりぎりの日程しかなかったからだ。
が、役員は、興味深そうにパスポートをみてはんこをみて
「これはどこだ」と聞いてくるだけだった。
ほんとうに中国の役人は腹が立つ。
この検問で、ツアーでネパールに行っていた人が
客のなかで一人分の荷物をすべてあけさせられて、
これは何かすべて説明させられたそうだ。役人は取り囲んで
笑っていたそうだ。
すべて興味本位、気まぐれ、暇つぶしで行っているとしか思えない。
誰のための公安だろうか?
何のための公安だろうか?
それを考えると、日本も捨てたものでもないのでは
その後、エベレスト方面へ向かう。
こちらの呼び方ではチョモランマだ。
チョモランマへは、フレンドシップハイウェイから横道へそれる。
その道は、自転車乗りのうわさでは「自転車は荷物以外のなにもの
でもない」とのこと。
ここで考えないといけないのは
ここからチョモランマまでどうやっていくかだ
自転車でいくと早いかも知れないが5000mの峠をおさないといけない。
しかも行きも帰りもだ。
歩くと、チョモランマまで3日の行程。
もう、許可証の日程オーバーは決定的だし、自転車で押すのにもつかれたし
歩こう。ネパールでのトレッキングの足慣らしだ。
横道へそれたところに村と検問があった。
そこで誰もいないので部屋に入ると、役人がマージャンしていた。
めんどくさそうに何か言っている。
「シックス?」
6元払えということ?賄賂?
なんだろうと思って6元渡そうとすると、めんどくさそうに
行け行けと手で払われた。
ラッキー
なんと、後から聞くと通行に60元必要だったそうな。
その日はその近くの民家に泊まる。
お母さん一人と子供一人だった。
お父さんは昔に死んだとのことだった。
子供の片言の中国語で交渉。
安かったしOKだった。
ご飯もたべさせてくれたし良かった。
がなんかお金がほしそうないやらしい雰囲気があったが、
まだ、お金になれていないような感じで、それ以上にお金に困っている
ようだった。
自転車を預かってもらうので、帰ってきたらチップでも弾んであげようかなぁと思って、薄暗い部屋の中で寝る。
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【2001/10/28 日曜日 チェ村-->パン・ラ-->ペルーチ村】
・友達

パン・ラからの風景
朝歩き始める
出発のときに、お母さんが10元くれといってきた。
食事代だとのこと。
悲しかった。
言われなくても帰ってきたら少し払うつもりだったが
そんな気も無くなった。
最初から言ってくれたらいいのに。
安く泊まっているのだから、10元ぐらい最初の言い値が高くても
泊まっていた。
峠に向かって歩く。
道を補修しているようで、くねくねとした道が続く。
旧道が有るのでそれを歩いていく。
峠に着いたのがなんと2時ぐらいだった。
すばらしい風景だったが、少しあせっていた。
本には8時間ぐらいと書いていたはずだったが
これでは無理ではないか。
ぜんぜん街に着かない。
風も強くなってくる。
日も落ちてきた。
草原の中でウインドブレーカーを着た。
周りはもう暗くなっていた。
凄く寂しかったが、歩かないと街に着かない。
こんな何も無いところでは泊まることもできない。
あとどれくらいすると街だろうか?
予定ではあと1時間もしないうちに着くと思うが?
なぜか、こんなときに大学のサークルの友達の姿が頭に出てきた。
いまごろ、何しているのだろうか?
警察官になったやつ、会社員になったやつ、結婚したやつ、
同じ今日を生きているが、まさか僕がこんな僻地で
暗い中を不安にかられて歩いているとは思ってもいまい。
でも、それぞれいろいろな場所でやっていることは違うが
同じようにがんばっているのだろう。
そう思うとがんばろう思った、元気が出てきた。
なんか、ユズの「嗚呼青春の日々」の歌詞が頭にでてきた。
「それぞれの思いを胸に。
互いの道を確かに歩いていくんだね・・・」
歌いながら歩いていた。
ふと空をみると月が明るかった。地面を見ると影ができていた。
前方には街の光が小さく見えてきた。
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