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日・タイFTA、農業と農村の持続可能性こそ重要

農業情報研究所WAPIC)

03.6.6

 タイは今月五日からのタクシン首相訪日の際に日本との自由貿易協定(FTA)の政府間交渉開始の合意を期待していた。日本外務省もその心づもりであったようである。しかし、タイがコメを含めた農産物の関税撤廃を要求していることを知った日本農業団体が猛反発、農水省もタイとの間では「腹を割った議論」がなかったし、関係業界が参加をした検討」も行われていないことを理由に、今までの五回の準備会合の「事務レベルのものを、もう一段熟度を高めるプロセス」を要求した(渡辺農林水産事務次官記者会見概要、 平成15年5月29日)。このために、政府間交渉開始が遅れることは確実だが、今後本交渉が予想されているメキシコとの交渉や、本交渉に向けて調整が進められているフィリピン、マレーシア、インドネシア等の東南アジア諸国との交渉にも影響を与える恐れがある。今回の出来事は、GATT/WTOの下での多角的交渉を通じての貿易自由化の追求から二国間・地域協定の追求に向けて大きく舵を取った日本の通商戦略の危うさを露呈するものといえよう。

 日本の通商戦略の転換は、WTOの下での貿易自由化交渉が停滞するなかで世界を席捲するようになった地域経済統合の動きに乗り遅れることを恐れたものである。地域経済統合の要をなす自由貿易協定は協定締結国(域内国)間の貿易障壁(関税や非関税障壁)を撤廃するものであるから、域外国のこれら諸国への市場アクセスは当然不利となる。もしこの動きに乗り遅れれば、日本経済の将来が暗くなる、戦略転換に掻き立てたのは、何よりもこのような恐怖であった。

 しかし、そもそも地域経済統合が世界を席捲するようになったのは何故なのか。経済がグローバル化するなか、世界規模での競争を首尾よく制するためには、経済・市場の自由化・構造改革(規制緩和・撤廃、競争促進)こそ最善の手段とする思想が、とりわけ1980年代以降、世界中を支配するようになったからである。貿易自由化はこのような手段の不可欠の一環をなす。しかし、多角的交渉による自由化は速度が遅いし、徹底もしない。それが地域経済統合の奔流を生み出したのである。

 主としてラテン・アメリカの90年代以降の新たな地域経済統合(新地域主義)を対象とした米州開発銀行(IDB)の2002年の研究報告(Beyond Borders: The New Regionalism in Latin America)は、これら地域経済統合の全体に共通する動機として、自国経済を「ますますグローバル化し、競争が激化する世界経済に首尾よく組み込むための追加手段の追求」をあげ、「地域統合は構造改革過程そのものの一部をなす」と言っている(p.1)。これはラテン・アメリカだけの特徴ではない。EUの1992年市場統合、1994年の北米自由貿易協定、1990年代にアジア、アフリカに次々と登場した新たな地域経済統合は、すべてこのような動機に基づくものである。この思想と動きは、旧ソ連の支配下にあった中東欧諸国を始めとする地域にも及んでいる。自由化・構造改革は冷戦体制さえ葬ったのである。

 このような地域経済統合の奔流は、それ自体がさらなる統合を生み出す。日本がそうであったように、域外に置かれることによる競争上の不利を恐れる国が、この流れに乗り急ぐからである。

 日本も、単にこのような恐れだけから戦略を転換しわけではない。2002年1月、東南アジア諸国歴訪に際してFTAも含み得る経済連携協定を提唱した小泉首相が、これを「構造改革」のテコにしようとしていたことは明らかである。2002年10月の外務省と『日本のFTA戦略』も、「日本の市場開放から生じる痛みを伴わずにFTAの利益は確保できないが、日本の産業構造高度化にとって必要なプロセスと考えるべきである。人の移動をはじめいくつかの規制分野、あるいは農業分野における市場開放と構造改革のあり方は避けて通れない問題。政治的センシテヴティに留意しつつ、FTAを日本の経済改革に繋げていく姿勢抜きには、日本全体の国際競争力を強化する手段としての目的は達成できない」と述べた(要約版より引用)。

 しかしながら、政府部内には、このような改革の見通しも、覚悟もなかったようである。今回のタイとの間での出来事がそのことをはっきりと示したわけである。これは政府の責任の問題である。しかし、今は責任を問題にするよりも、地域経済統合の推進、さらには貿易自由化の推進そのもののあり方、さらに「規制撤廃・市場開放・構造改革」そのものに根本的反省をもたらす好機ととらえるほうが重要ではなかろうか。それは関連業界はもとより、国民全体の生活に重大な影響を与える。タイとの協定については「産官学」によるさらなる検討が叫ばれているようであるが、これは国民的論議の対象をもなすべき問題である。

 その際、FTAと構造改革がもたらす経済効果だけでなく、その社会的影響が徹底的に検討されねばならない。FTA交渉開始に際して必ず強調されるのは、それによって貿易とGDPが何%増えるといった数字である。しかし、先のIDBの包括的研究も、過去10年、特恵[地域]貿易協定の貿易パターン・世界の福祉・多角的貿易制度に対する影響の大量の研究が現われたが、経験的証拠は限られており、「我々は、特恵に基づく貿易障壁の変化の重要度とその結果としての二国間貿易量の変化についてはほとんど何も知らない」と言う(p.67-68)。この研究は、それだけでなく、反グローバリゼーション運動がとりわけ強調する自由化による「貧富の格差の拡大」についても理論的・実証的評価を行っている。結果は肯定でも否定でもないが、この可能性を認め、とりわけ地域的格差の拡大を懸念、このような悪影響を防止するための様々な政策手段を研究している。

 日・タイFTAに関しては、日本の農業団体や政官は、とりわけコメ・澱粉・鶏肉・砂糖などの国内産地に与える破滅的影響を懸念しているようだ。これは確かに重要問題だ。しかし、主要関心品目で日本の譲歩がないならタイのTA締結のメリットはないというタイ側の批判にも道理がある。早速、コメ棚上げの事前了解を得て政府間交渉に入れ、産官学による研究が必要ならば交渉と並行して行なえという日本研究者の提言が現われたのも当然に見える(FTA 日タイ政府間交渉に入れ(私の視点 伊藤隆敏)、朝日新聞 6.5)。彼は、「コメ以外の農水産品でタイからの輸入量が大きい品目の関税率はエビが1%、家禽肉が11.9%、鶏肉調整品が6%、イカが3.5%。1%の関税撤廃は影響が小さい。鶏肉生産者は地鶏として品質を高めて価格プレミアムをつけることで安価な輸入品との住み分けを図る。コメ以外については最大10年かけて関税をゼロにすることを約束、国内生産者の生産性向上を図ることが可能」と言う。しかし、この妥協の結果が日本の農業・農家・農村にもたらす影響はもっと深く研究する必要があろう。

 同時にタイ側への影響も研究されねばならない。その主要関心品目である農産物の輸出の拡大が大きく増加すれば、タイにとっての経済的メリットは大きいかも知れない。しかし、それによって生じる生産拡大はタイの農業・農村・環境に悪影響を与えることはないのか。輸出・生産拡大の利益を得るのは誰なのか。いまなお土地改革による土地配分の恩恵を受けていない多数の土地無し農村民にも利益は配分されるのか。それとも、ますます土地を集中した大農場の悲惨な境遇の労働者を増やすだけなのか。こうした悪影響があり得るとすれば、FTAに付随したこれを防ぐ手段が不可欠である。

 欧州経済統合は基本的には自由化が経済成長を促し、社会全体の福祉を増進するという思想に基づいている。それにもかかわらず、共通農業政策(CAP)の設立することによって域内農業・農村の調和的発展を図ることによってしか統合を進めることはできなかった。地域的・社会的格差是正手段を強化は統合の深化と拡大に不可欠であり、いまやそのための財政手段である「構造基金」はEU予算の半分近くを占めるCAP予算に迫る規模となっている。ともすれば統合の「表面」だけが注目され、それを支えるこのような裏面が忘れられている。しかし、統合がもたらす地域的・社会的格差の是正はEU政策の根幹をなすのである(参照:北林寿信 1992,地域政策(国立国会図書館内EC研究会編 新生ヨーロッパの構築,日本経済評論社);同、2001,持続可能な発展めざすEU地域政策 RPレビュー,2001-No.2)。

 EUは、ラテン・アメリカではメキシコ・チリとFTAを締結、ブラジル・アルゼンチン等が構成する南米最大規模の地域経済統合「南米共同市場(MERCOSUR)ともFTA交渉を行っている。ここでも、地域の社会的格差・貧困・疎外に挑戦しようとしている。このほど、IDBと共同でこしうた問題に挑戦する方法を探る高レベルのセミナーをブリュッセルで開いている(Joint Commission - Inter-American Development Bank campaign for a fairer society in Latin America,6.5)。エビアン・サミットに招かれたルーラ・ブラジル大統領は、競争力をつけるために巨大な犠牲を払ってきたが、補助金戦争と保護主義の真っ只中でどうして自由に競争できるのかと先進国の一層の自由化を要請するとともに、「社会的持続可能性なしでの経済発展はないと確信する」と演説した("Hunger Cannot Wait": Lula's speech at G8,IATP's Trade Observatory,6.4)。先のIDBの報告は、自由化・構造改革がもたらすマイナスの側面が認められるとしても、それが地域統合を目指す「ポリシー・メーカー」を挫くことはあり得ないだろうという(p.10―11)。そうであるならば、ポリシー・メーカーは欧州統合の歴史からもっと多くを学ぶ必要がある。

 繰り返しになるが、日・タイFTAは、農業に限って言えば、量的な観点だけでなく、それが、双方において、安全な農産物・食品の供給、環境に優しい生産方法、貧困解消、農業と農村社会の持続可能性に寄与できるのかどうか、そのためには何が必要かという観点から研究を深める必要がある。このような研究が深められ、それに基づく協定ができれば、それは地球と人類に明るい未来を開き得る「自由化」のモデルとなることができるであろう。

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