西暦セイレキ 干支エト 事象ジショウ 人物ジンブツ年齢ネンレイ推定スイテイ
630   現在ゲンザイウチモンゴル自治区ジチクホロン・ブイルメイサカイ、アルグン河の南にんでいた)モウコツモウカワラシツといわれる部族ブゾクが、史書シショてくるモンゴルゾクハジめての記録キロク[1]                    
1015 オツ リョウリツセイ、ジャライルバツ
ヤブれて移動イドウしたジャライル、モンゴルのハイドの一族イチゾク衝突ショウトツ皆殺ミナゴロしにする
(一人ヒトリノガれたハイドは叔父オジナチン・バートルのタスけを成人セイジンしたノチ、ジャライルめてこれを臣下シンカにした)
                   
1084 甲子キノエネ ハイドのマゴトンビナイ・ハン、リョウ使ツカいをオク                    
   
トンビナイのカブル・カン、キン朝貢チョウコウする[2]
                   
1149〜1160   アンバガイ・ハン、タタルにトラわれ、キンコクワタされてコロされる
(金、海陵王の在位中といわれる)
テムジン                  
1160 カノエタツ                    
1161 カラ                    
1162 ミズノエウマ テムジン誕生タンジョウ 1[3]                  
1163 ミズノトヒツジ   2                  
1164 コウサル   3                  
1165 オツトリ   4 ムカリ                
1166 ヘイイヌ   5                
1167 テイガイ   6                
1168 ツチノエ   7                
1169 スデウシ   8 0                
1170 カノエトラ
ボルテと婚約、オンギラトに預けられる
チチエスガイ、タタルに毒殺ドクサツされる
9 1                
1171 カラ   10 2                
1172 ミズノエタツ   11 3                
1173 ミズノト   12 4   ボロクル            
1174 コウウマ   13 5              
1175 オツヒツジ   14 6     シギ・クトク        
1176 ヘイサル   15 7            
1177 テイトリ   16 8            
1178 ツチノエイヌ ボルテと結婚ケッコン
ボオルチュ、ジェルメ、チンベ、チラウン兄弟キョウダイシタガ
17 9   1 チャガタイ        
1179 スデガイ   18 10 ジュチ 2        
1180 カノエ   19 11 3 1[4]        
1181 カラウシ メルキトにボルテをウバわれる 20 12 4 2 オゴデイ      
1182 ミズノエトラ
ボルテをウバカエす ジュチ誕生タンジョウ
21 13 0 5 3      
1183 ミズノト   22 14 1 6 4      
1184 コウタツ   23 15 2 7 1 5      
1185 オツ   24 16 3 8 2 6      
1186 丙午ヒノエウマヘイ   25 17 4 9 3 7 1      
1187 ヒツジ   26 18 5 10 4 8 2 トゥルイ    
1188 サル   27 19 6 11 5 9 3    
1189 トリ 第一次ダイ1ジ即位ソクイ
十三13ツバサタタカい(タイジャムカ)[5]
28 20 7 12 6 10 4    
1190 イヌ   29 21 8 13 7 11 5    
1191 ガイ   30 22 9 14 8 12 6 0    
1192   31 23 10 15 9 13 7 1    
1193 ウシ   32 24 11 16 10 14 8 2    
1194 トラ キン、ケレイトと同盟ドウメイしてタタルを
トオリルに「オウ」テムジンに「ジャウト・フリ」の称号ショウゴウアタえられる[6]
33 25 12 17 11 15 9 3    
1195 ケレイトからジャア・ガンボが亡命ボウメイしてくる 34 26 13 18 12 16 10 4    
1196 タツ ワン・ハンと同盟ドウメイ[7] 35 27 14 19 13 17 11
5[8]
   
1197 ハル、ジュルキンゾク
アキ、メルキトを[9]
36 28 15 20[10] 14 18 12 6    
1198 ウマ トオリル・ハン、メルキトを[11] 37 29 16 21 15 19 13 7    
1199 ヒツジ ケレイトと連合レンゴウしてナイマンをとうとするが、ワン・ハンにりにされ失敗シッパイ 38 30 17 22 16 20 14 8    
1200 サル ケレイトと連合レンゴウしてタイチュウトをヤブ
モンゴルショ氏族シゾクとタタルの連合軍レンゴウグンを、ブイル・ノールでヤブ
フユ、タタル部族ブゾクヤブ
39 31 18 23 17 21 15 9    
1201 トリ ジャムカがハンワン・ハン、ハンテムジンの勢力セイリョク集結シュウケツさせ、グル・ハーンに推戴スイタイされるが、そのグンをテムジンがヤブ
オンギラトが合流ゴウリュウ
40 32 19 24 18 22 16 10    
1202 イヌ ブイル・ノール湖畔コハンにタタルをち、6氏族シゾクのうち2氏族シゾク制圧セイアツした
ナイマン、オイラト、メルキト連合軍レンゴウグンがワン・ハンとテムジンにかってたので、コイテンの地で破る
ジェベシタガ[12]
41 33 20 25 19 23 17 11    
1203 ガイ ジャムカがワン・ハンにり、テムジンを攻撃コウゲキ
バルジュナまで撤退テッタイ
反撃ハンゲキして勝利ショウリし、ワン・ハンはコロされる
42 34 21 26 20 24 18 12    
1204
ナイマンに勝利し、ナイマン王タヤン・ハーン戦死 
ジャムカも捕らえて殺す 
タタルの残党も壊滅させ、草原を統一 
ホアス・メルキト族のダイル・ウスンの娘、
クランを娶る
タタ=トンガにメイじてウイグルのアルファベットを使ツカってモンゴル表記ヒョウキさせる[13]
43 35 22 27 21 25 19 13 バトゥ  
1205 ウシ 第一次ダイ1ジ西夏セイカ遠征エンセイ 44 36 23 28 22 26 20 14  
1206 トラ ダイ二次ニジ即位ソクイ「チンギス・ハーン」と名乗ナノ[14] 45 37 24 29 23 27 21 15 0  
1207 第二時ダイ2ジ西夏セイカ遠征エンセイ
ジュチ、ハヤシタミ征服セイフク ボロクル戦死センシ
テプ・テングリコロされる
46 38 25 30 24 28 22 16 1  
1208 タツ ナイマンに遠征エンセイ征服セイフク
ナイマン王子オウジクチュルク、カラ・キタイに亡命ボウメイ
47 39 26 ボロクル 25 29 23 17 2  
1209 スデ ダイ西夏セイカ遠征エンセイ降伏コウフクさせる
ウイグル王国オウコク服従フクジュウ
48 40 27 26 30 24 18 3  
1210 ウマ キン断交ダンコウ 49 41 28 27 31 25 19 4  
1211 ヒツジ
ナイマン皇子オウジクチュルク、カラ=キタイを
それまでカラ=キタイにシタガっていたカルルクゾクがモンゴルに帰属キゾク
チンギスハン、キンシンセイ[15]
50 42 29 28 32 26 20 5  
1212 サル   契丹キッタンゾクリツリュウウタキンソム 51 43 30   29 33 27 21 6 フビライ
1213 トリ   キン皇帝コウテイエイショウオウコロされる
  モンゴルグンは、3グンかれて南下ナンカ
  90もの都市トシゴウリャク[16]
52 44 31   30 34 28 22 7
1214 イヌ   キンとモンゴル和議ワギ(キンコウシュ嫁入ヨメイり)
  講和コウワ直後チョクゴキン開封カイフウ遷都セント
53 45 32   31 35 29 23 8
1215 ガイ   モンゴルグン南下ナンカチュウ陥落カンラク
  リツザイ
54 46 33   32 36 30 24 9
0
1216 タイキンセンをムカリにマカせ、チンギスハン、モンゴルへ帰還キカン
ナツ、ジュチグン、ホラズムオウムハンマドのグン鉢合ハチアわせ、あわやコロしそうになる[17]
55 47 34   33 37 31 25 10 1
1217 ウシ
ムカリ、満州マンシュウ方面ホウメン制圧セイアツし、モンゴルへ帰還キカン
ムカリに国王コクオウ称号ショウゴウアタえ、黄河コウガ以南イナン征服セイフクたらせた
56 48 35 ボロクル[18] 34 38 32 26 11 2
1218 トラ 耶律楚材、チンギスに会う(二九歳)
ジェベ、カラ・キタイに進軍シングン、ナイマン王子オウジクチュルクをコロ
オトラル事件ジケン[19]
57 49 36   35 39 33 27 12 3
1219
西ニシセイ開始カイシ[20]
58 50 37   36 40 34 28 13 4
1220 カノエタツ ガツ、ブハラ陥落カンラク
ガツ、サマルカンド陥落カンラク
12ガツ、ホラズムのスルタン・ムハンマド、カスピカイ小島コジマ
59 51 38   37 41 35 29 14 5
1221 カラ バルフ、メルヴ陥落カンラク
ガツ、ウルゲンチ、ニシャプール陥落カンラク
アキ、バーミヤンでチャガタイの子モエトゥゲン、流れ矢に当たり戦死
ジャラール・ウッディーン、ガズニにヘイアツめモンゴルグンマンヤブるが、グン内紛ナイフンこり、インダスガワ退却タイキャク[21]
60 52 39   38 42 36 30 15 6
1222 ミズノエウマ ジェベ、スブタイ別働ベツドウグンをスルタン・ムハンマド追跡ツイセキのため西ニシ派遣ハケン[22] 61 53 40   39 43 37 31 16 7
1223 ミズノトヒツジ ガツ、カルカ河畔カハンでロシア諸侯ショコウグン撃破ゲキハ
ガツ、ヘラト陥落カンラク
62 54 41   40 44 38 32 17 8
1224 コウサル スブタイ別働ベツドウグン、イルティシュ河畔カハンでチンギスグン合流ゴウリュウ 63 ムカリ 42   41 45 39 33 18 9
1225 オツトリ 正月ショウガツ、モンゴルへ帰還キカン 64 43   42 46 40 34 19 10
1226 ヘイイヌ ハル第四次ダイ4ジ西夏セイカ遠征エンセイ 65 44   43 47 41 35 20 11
1227 テイガイ
ガツチンギス・ハーン死去シキョ
西夏セイカ滅亡メツボウ[23]
66   ジュチ   44 48 42 36 21 12
1228 ツチノエ トゥルイ、カンコクニン
ゲンチョウ秘史ヒシマキ1マキ10かれる
テムジン     45 49 43 37 22 13
1229 スデウシ クリルタイにてオゴデイ・ダイハーンに推戴スイタイされる[24]       46 50 44 38 23 14
1230 カノエトラ キュウキンリョウ区画クカク整理セイリし、徴税チョウゼイホウ整備セイビ
駅伝エキデン(ジャムチ)セイかれる[25]
        47 51 45 39 24 15
1231 カラ チュウショショウリツザイ就任シュウニン
モンゴルグン高麗コウライめる 高麗コウライハゲしく抵抗テイコウ[26]
        48 52 46 40 25 16
1232 ミズノエタツ
モンゴルグン高麗コウライ進攻シンコウ(1259ネンまでツヅく)
モンゴルグン開封カイフウ包囲ホウイ
        49 53 47 41[27] 26 17
1233 ミズノト ホラズムコウテルケン・ハートゥーン死去シキョ         50 54 48 トゥルイ 27 18
1234 コウウマ キン滅亡メツボウ
クリルタイ
開催カイサイ世界セカイ各地カクチオモにヨーロッパと南宋ナンソウ)への征服セイフク計画ケイカクまる
カラコルムの
建設ケンセツまる
        51 55 49 28 19
1235 オツヒツジ カラコルム建設ケンセツ         52 56 50   29 20
1236 ヘイサル バトゥヨーロッパ遠征エンセイ開始カイシ         53 57 51   30 21
1237 テイトリ
  チンギスのダイクランの息子ムスコクルゲン、
  コロムナジョウタタカいでセン
        54 58 52   31 22
1238 ツチノエイヌ モスクワ、ウラジーミル陥落カンラク イラクへ侵攻シンコウ         55 59 53   32 23
1239 スデガイ モンゴルグン、チベットへ侵攻シンコウ[28]         56 60 54   33 24
1240 カノエ キエフ陥落カンラク         57 61 55   34 25
1241 カラウシ 12ガツ11ニチ、オゴデイ死去シキョ[29]         58 62 56   35 26
1242 ミズノエトラ バトゥ、遠征軍を返す         チャガタイ 63 オゴデイ   36 27
1243 ミズノト           64   37 28
1244 コウタツ ガツリツザイ死去シキョ(五四歳54サイ)         65   38 29
1245 オツ           66   39 30
1246 丙午ヒノエウマヘイ オゴデイの未亡人ミボウジントレゲネがカンコクにたち、クリルタイを召集ショウシュウするが、バトゥはボイコット
グユク、ダイハンに即位ソクイ
        67   40 31
1247 ヒツジ           68     41 32
1248 サル グユク死去シキョ           69     42 33
1249 トリ バトゥ、アラ・カマクサンにクリルタイを召集ショウシュウするが、チャガタイ、オゴデイ両家リョウケがボイコット           70     43 34
1250 イヌ バトゥ、オノンカワ、ケルレンミナモト、チンギスのダイオルドでクリルタイを召集ショウシュウするが、チャガタイ、オゴデイまたもボイコット           71     44 35
1251 ガイ モンケ即位ソクイ           72     45 36
1252 フビライに雲南ウンナン征服セイフクメイじる
ゲンチョウ秘史ヒシゾクカン1の241セツカン2の273セツクワえられる
          73     46 37
1253 ウシ
フランス王ルイ9世の使節ルブルクの一行、バトゥに謁見エッケンする
フビライが大理ダイリ王国オウコクホロぼす
          74     47 38
1254 トラ フビライ雲南ウンナンより凱旋ガイセン
モンゴルグン高麗コウライ侵攻シンコウ苛烈カレツ
          75     48 39
1255 バトゥ死去シキョ ベルケが           76     49 40
1256 タツ フラグ、ペルシャの遠征エンセイ
暗殺アンサツ教団キョウダンイスマイル拠点キョテンアラムート陥落カンラク[30]
          77     トゥ 41
1257 雲南ウンナン遠征軍エンセイグンのウリャンハダイ、ヴェトナムに侵入シンニュウ[31]           78     48 42
1258 ウマ フラグがバクダットのアッバースチョウホロぼす
高麗コウライ内部ナイブ政変セイヘンこり、モンゴルとの和議ワギスス
          79     49 43
1259 ヒツジ ナツ高麗コウライコク太子タイシオウテン、モンゴルに入朝ニュウチョウ
高麗コウライ国王コクオウボッしたので、帰国キコクして即位ソクイ
アキ四川シセンの陣中にてモンケ死去[32]
          80     50 44
1260 サル アイン・ジャールートのタタカい、モンゴルグンがはじめてヤブれる
フビライ即位ソクイ世祖セイソ) アリクブカ即位ソクイ
フビライチュウショショウモウけ、チュウショヘイショウ政事セイジオウブントウニンじる
アリク・ブカのラン[33]
          81     51 45
1261 トリ
ジャライル王家オウケのバートルキョ
チンキムをエンオウフウじ、シュチュウショレイニンじ、チュウショショウ監督カントクさせる[34]
          82     52 46
1262 イヌ 漢人カンジン軍閥グンバツタン反乱ハンラン、すぐ鎮圧チンアツされる
オウブントウ失脚シッキャク
          シギ・クトク     53 47
1263 ガイ 軍政グンセイをつかさどる枢密院スウミツイン設立セツリツ
チンキムがハン枢密院スウミツインコトねる[35]
              54 48
1264 アリクブカ投降トウコウ
(『ゲンチョウ秘史ヒシ』274セツ〜281セツクワえられ、完成カンセイした?)
              55 49
1265 ウシ フラグ死去シキョ               56 50
1266 トラ 大都ダイト建設ケンセツ開始カイシ アリクブカ死去シキョ               57 51
1267 大都ダイト遷都セント                 ベルケ 52
1268 タツ
四角形吹き出し: カマラを北辺の鎮として、チンギスの4大オルドとモンゴル本土を領せしめた
四角形吹き出し: テムルに子がなかったので、皇后ブルガン・ハトン(バヤウト氏族出身)はマンガラ(チンキム皇太子の弟)の3男、アーナンダをハーンに迎えようとするが、コンギラト氏族が対抗、テムル・ハーンの兄ダルマ・パーラの次男アーユルパリドラを擁してクーデターを起こし、アーナンダを殺し、ブルガン・ハトンを追放。
アーユルパリドラは兄ハイシャンを迎え、ハーンに擁立した
ギョダイモウける
ハイドゥ(オゴデイのマゴ)がフビライに開戦カイセン
(ハイドゥのラン[36]
                53
1269 スデ パスパ文字モジ創設ソウセツ[37]                 54
1270 ウマ ショウショショウモウける
アフマッドがヘイショウ政事セイジニンじられる[38]
                  55
1271 ヒツジ 国号コクゴウダイゲンダイモンゴルコクとする                   56
1272 サル 尚書省と中書省合併ガッペイされる                   57
1273 トリ ゲングンマガキジョウジョウヨウオチイ
チャブイを皇后コウゴウ、チンキムを皇太子コウタイシとする
                  58
1274 イヌ 第一次ダイ1ジ日本ニホン遠征エンセイ(文永ブンエイエキ)[39]                   59
1275 ガイ (マルコ・ポーロ、ジョウ入城ニュウジョウ)
ブンテンショウ勤王キンノウ挙兵キョヘイ
ハイドゥとドワ(チャガタイ)の連合軍レンゴウグン西セイキョウオカし、皇子オウジノムガン、ジョウショウアントン、グンヒキいて対峙タイジ
                  60
1276 クイシュウ陥落カンラク南宋ナンソウ降伏コウフク                   61
1277 ウシ シリギ(モンケ・ハーンの遺児イジ反乱ハンラン、ノムガンとアントンをらえてハイドゥに引渡ヒキワタ
チュウショジョウショウバヤン、急行キュウコウしてシリギを撃破ゲキハ
                  62
1278 トラ 文天祥、ゲングントラわれる                   63
1279 ガイヤマタタカい、南宋ナンソウ滅亡メツボウ
チンキム皇太子コウタイシチチわり国政コクセイ決済ケッサイする[40]
                  64
1280 カノエタツ                     65
1281 カラ 第二次ダイ2ジ日本ニホン遠征エンセイ(弘安コウアンエキ)
皇后コウゴウチャブイ死去シキョ[41]
                  66
1282 ミズノエウマ 文天祥処刑ショケイされる
アフマッドコロされる
                  67
1283 ミズノトヒツジ 広東カントン福建フッケン民衆ミンシュウ反乱ハンランこる                   68
1284 コウサル イタルモトショウ(紙幣シヘイ)発行ハッコウ
東方トウホウ当主トウシュナヤン、ゲンチョウカエハイ
アンナンコウアトシロ
投下トウカ、チンキム皇太子コウタイシ直属チョクゾク
皇子オウジノムガン、アントン、方面ホウメンされて元朝ゲンチョウ復帰フッキ[42]
                  69
1285 オツトリ 12ガツ、チンキム皇太子コウタイシ死去シキョ(四三43サイ)                   70
1286 ヘイイヌ                     71
1287 テイガイ ハイドゥと呼応コオウし、東方トウホウ3王家オウケ(ナヤン、ハダン)反乱ハンラン
フビライシンセイしてナヤンを撃破ゲキハ
                  72
1288 ツチノエ 皇孫コウソンテムル(チンキムの遺児イジグンヒキい、ハダンを鎮圧チンアツ                   73
1289 スデウシ ハイドゥグン皇孫コウソンカマラ(チンキムの遺児イジグン撃破ゲキハ                   74
1290 カノエトラ (マルコ・ポーロ、泉州センシュウから帰国キコクにつく)                   75
1291 カラ                     76
1292 ミズノエタツ トオシュウ大都ダイトカンメグトオカワ完成カンセイ
皇孫コウソンカマラをシンオウとする
                  77
1293 ミズノト バヤンを召還ショウカンし、皇孫コウソンテムルを北辺ホクヘン総司令官ソウシレイカンとして派遣ハケン                   78
1294 コウウマ フビライ死去シキョ
皇孫コウソンテムル(セイソウオルジェイド・ハーン)即位ソクイ[43]
                  79
1295 オツヒツジ                     フビライ
1296 ヘイサル                    
1297 テイトリ                    
1298 ツチノエイヌ                    
1299 スデガイ                    
1300 カノエ チンキムのツマココジン・ハトンキョ  
1301 カラウシ ハイドゥ、オゴデイ、チャガタイ兵力ヘイリョク動員ドウインしてモンゴル高原コウゲン進攻シンコウ
ハイシャン(チンキムのマゴ)らのグン勝利ショウリするが、キョ のチャバルが
 
1302 ミズノエトラ 晋王カマラキョ イェスン・テムルが  
1303 ミズノト    
1304 コウタツ    
1305 オツ ハイドゥのチャバル、ゲンチョウ
チャバル(オゴデイケイ)とドワ(チャガタイケイ衝突ショウトツ
 
1306 丙午ヒノエウマヘイ チャバル、ドワに降伏コウフクオゴデイホロびる  
1307 ヒツジ テムルボツ ハイシャン(ソウクルク・ハーン)即位ソクイ[44]  
1308 サル    
1309 トリ    
1310 イヌ    
1311 ガイ ハイシャンボツ 
アーユルパリドラ(ジンソウブヤント・ハーン)即位ソクイ
 
1312    
1313 ウシ    
1314 トラ    
1315 科挙カキョ実施ジッシ  
1316 タツ ダキ、ハトン皇太后コウタイゴウ、アーユルパリドラの
長子チョウシシッディパーラを皇太子コウタイシてる
 
1317    
1318 ウマ    
1319 ヒツジ    
1320 サル アーユルパリドラボツ 
シッディパーラ(エイソウゲゲーン・ハーン)即位ソクイ
 
1321 トリ ハイシャンの次男ジナントブティムール、海南カイナントウ追放ツイホウされる  
1322 イヌ ダキ・ハトン皇太后コウタイゴウキョ  
1323 ガイ 四角形吹き出し: イェスン・テムルは晋王カマラの息子
ダイゲンツウセイリョウ
エイソウ、コンギラトコロされ、イェスンティムル(タイサダテイ即位ソクイ
 
1324    
1325 ウシ    
1326 トラ    
1327
四角形吹き出し: エンティムールは、北辺防衛のキプチャク人軍団の司令官
四角形吹き出し: トブティムールは、海南島に流されていた、ハイシャンの次男
 
 
1328 タツ イェスンティムルボツ
皇太子コウタイシラキパクジョウにおいて即位ソクイゲンテンジュンテイ
重臣ジュウシンエンティムール、トブティムール(ブンソウジャヤート・ハーン)を擁立ヨウリツ
内乱ナイランとなる[45]
 
1329 スデ ブンソウアニクシャラ(メイソウフトゥクト・ハーン)に譲位ジョウイするが、メイソウはエンティムールにコロされ、ブンソウフタタ即位ソクイ  
1330 ウマ    
1331 ヒツジ    
1332 サル 四角形吹き出し: クシャラ・ハーンの遺児
ブンソウトブティムールボッする
イリジンパル(ネイソウ)擁立ヨウリツされるがボッする[46]
 
1333 トリ エンティムール死去シキョ
メイソウクシャラ・ハーンの長子チョウシトゴンティムール(メグミシュウウハート・ハーン)即位ソクイ
 
1334 イヌ    
1335 ガイ 科挙カキョ廃止ハイシ
イル・ハーン断絶ダンゼツ
エンティムールの息子ムスコタンギシのクーデターをメルキトゾク将軍ショウグンバヤンが鎮圧チンアツ 独裁権ドクサイケンニギ
 
1336    
1337 ウシ シロハスキョウケイウルオシンヨウシュウ蜂起ホウキ  
1338 トラ    
1339    
1340 カノエタツ バヤンのオトウト、マジャルタイの息子ムスコトクトアがクーデターをこす
バヤンは追放ツイホウになり、キョ
 
1341 カラ    
1342 ミズノエウマ    
1343 ミズノトヒツジ リョウキンソウ3正史セイシ編纂ヘンサンハジまる  
1344 コウサル 黄河コウガダイ氾濫ハンランカワドウキタ移動イドウ
トクトア辞職ジショク
 
1345 オツトリ 3正史セイシ  
1346 ヘイイヌ    
1347 テイガイ 四角形吹き出し: 方国珍は塩商人
マジャルタイ、トクトア父子フシ甘粛カンシュク追放ツイホウ
 
1348 ツチノエ ホウコクチンラン  
1349 スデウシ フタタびトクトアを政権セイケンける  
1350 カノエトラ    
1351 カラ
四角形吹き出し: 白蓮教はゾロアスター系の宗教
韓山童の予言により反乱を起こす
四角形吹き出し: 母は高麗貴族の奇皇后
四角形吹き出し: 張士誠も塩商人
四角形吹き出し: トクトアの死によって軍閥は除かれたが、軍隊自体も弱まってしまう
黄河コウガ修復シュウフク成功セイコウ
ハクハス教徒キョウト反乱ハンランこす コウキンラン
 
1352 ミズノエタツ トクトア、ジョシュウ紅巾コウキングン打撃ダゲキアタえる  
1353 ミズノト 皇子オウジアーユシュリーダラーを皇太子コウタイシてる
チョウセイ反乱ハンランこす
 
1354 コウウマ トクトア、ラン平定ヘイテイ出征シュッセイするも解任カイニンされ、追放ツイホウ  
1355 オツヒツジ トクトア、雲南ウンナン配所ハイショ毒殺ドクサツ
韓山童の息子韓林児、安徽省アンキショウハクシュウ即位ソクイ
タイソウ皇帝コウテイショウメイオウショウする
 
1356 ヘイサル 四角形吹き出し: 恭愍王は母方でチンギスの血を引いている
高麗コウライキョウビンオウ、モンゴルに反抗ハンコウ運動ウンドウこし、高麗コウライ国内コクナイ皇后コウゴウ勢力セイリョク一掃イッソウ 
朝鮮チョウセン半島ハントウ北辺ホクヘンジョウをモンゴルからウバカエすが、反対派ハンタイハ一掃イッソウするとトゴン・テムル・ハーンと和睦ワボク
 
1357 テイトリ    
1358 ツチノエイヌ    
1359 スデガイ 河南カナンのウイグルジン、チャガーン・テムル、紅巾コウキングンから根拠地コンキョチ開封カイフウウバカエし、紅巾コウキン政府セイフ大打撃ダイダゲキアタえる  
1360 カノエ    
1361 カラウシ    
1362 ミズノエトラ チャガーン・テムル戦死センシ
オイのココ・テムルが軍閥グンバツ
 
1363 ミズノト    
1364 コウタツ 山西サンセイ軍閥グンバツボロ・テムル、ハン皇太子コウタイシムスび、大都ダイト占領センリョウ
皇太子コウタイシアーユシュリーダラは太原オオハラ出奔シュッポン、ココ・テムルの保護ホゴモトめる
 
1365 オツ ボロ・テムル、ココ・テムルにホロぼされる
皇太子コウタイシ宮廷キュウテイ復帰フッキ
 
1366 丙午ヒノエウマヘイ
四角形吹き出し: 1月23日 朱元璋、南京で即位
 9月7日 トゴン・テムル・ハーン
       大都を脱出 北帰
9月14日 明軍、大都入城
四角形吹き出し: ここより、歴史書では北元と呼ばれるようになる
シュ元璋ゲンショウタイソウ皇帝コウテイカンリンコロ
 
1367 ヒツジ    
1368 サル トゴン・テムル・ハーンホク ジョウ
シュゲンショウ即位ソクイダイミン皇帝コウテイとなる
 
1369 トリ ジョウミングンちる オウショウ  
1370 イヌ トゴン・テムル・ハーン、オウショウボッする
アーユシュリーダラ(ショウソウビリクト・ハーン)が
オウショウミングンち、ショウソウキタノガれる
スウ百人ヒャクニンのモンゴル皇族コウゾクミングン捕虜ホリョとなる
シュ元璋ゲンショウ、トゴン・テムル・ハーンのり、ジュンテイオクする
 
1371 ガイ    
1372 アーユシュリーダラ、ココ・テムルと合流ゴウリュウ
ココ・テムル・、トーラ河畔カハンで15マンミングン撃破ゲキハ数万人スウマンニンコロ
 
1373 ウシ    
1374 トラ    
1375 ココ・テムルキョ  
1376 タツ    
1377    
1378 ウマ アーユシュリーダラボツ 
オトウトのトグズ・テムル(テンゲンテイウルハル・ハーン)が
 
1379 ヒツジ    
1380 サル    
1381 トリ    
1382 イヌ    
1383 ガイ    
1384    
1385 ウシ    
1386 トラ    
1387    
1388 タツ トグズ・テムル・ハーン、ブイル・ノール湖畔で明軍に大敗
カラコルム目指メザしてちてゆく途中トチュウ、アリク・ブカのイェスデルにコロされ、フビライ家ひとまず断絶
イェスデルがハーンにつ(ジョリクト・ハーン)
 

[1]
『旧唐書』『新唐書』北狄列伝
[2]
酔っ払って金の皇帝のヒゲを引っ張ったらしい。おいおい・・・ν
[3]
1155年説(享年72歳、集史)
1161年説(享年66歳、元史)
1162年説(享年65歳、秘史)


[4]
シギ=クトクはホエルンが育てたとされているが、ボルテが育てたという説もあり。
(これだとチンギスの弟ではなく、息子に準ずる扱いになる)

[5]
同じモンゴル族のタイチュウト氏と敵対するために、キヤト氏をまとめるハンとして推戴された。(本当にあったことか、疑問視する向きもアリ)
まだチンギスとは名乗っておらず、あまり地位も高くなく、若いもんが働け使いっ走りという感じ。
[6]
「ジャウト・フリ」とは「百人隊長」程の意味。
いいかげんに低い地位を与えられた屈辱的なことと見る説と、低い官職でも金の傘下に入れたことで庇護を受けられるようになり、重要なことだったとする説アリ。
[7]
同盟というより、その臣下になった
[8]
タタルの残党 カルギル・シラに横抱きにかっさらわれそうになったところを、ボロクルの妻、アルタニに助けられる。
[9]
すべての捕虜をワン・ハンに贈った
(ワン・ハンは弟に部族をのっとられて追い出されて、砂漠を放浪してたらしい・・・)
[10]
ジュルキン族討滅の際にテムジン陣営に入ったといわれ、すぐ戦闘に参加しているので、もう少し年上かもしれない。
でも、前の年にアルタニがトゥルイを助けてるんだよな・・・
変だよな・・・
[11]
お返しはもらえなかった
(メルキトの持つ鉄が欲しかったのだとする説あり)
[12]
金の長城内に家族を匿ってから出陣
(金の傘下に入っていたので、こういうことが出来るわけです)
[13]
これが現在まで通用しているモンゴル文字の起源
[14]
この年がモンゴル建国とされる。
[15]
全軍で10万程度と言われる
[16]
左翼三王子軍遼西へ
右翼カサル軍山西へ
中軍華北、山東へ
後、全軍集結して中都(現在の北京)を囲む
[17]
ジュチは本当に、やらずに済む戦闘は一つでも避けて通りたいらしい。
ここでジュチが本気になってたら間違いなくムハンマドの首を上げてたと思うけど、そうなったら歴史はどう変わっただろうね。まあ、カラキタイの次はホラズムがターゲットなのはモンゴル側はみな分かってたろうから、手を出さないよう厳命されてたんだろうけど。
[18]
この年、トゥマト族を討滅に出て戦死したとする資料もあるが、やはり1207年が正しいらしい。
[19]
モンゴルの送った通商使節団450人が、オトラルの総督イナルチュク(ガイル・ハン)にスパイ容疑をかけられ、皆殺しにされた事件。これが征西の理由となった。
もっともモンゴル側はすでに戦争準備をしていたから、本当にスパイだったと思われる。
ガイル・ハンは母后テルケン・ハートゥーンの親族だったので、事件後モンゴル側からの引き渡し要求にも、スルタンは応じることができなかった。


[20]
第1軍 チンギス・ハン本隊
第2軍 チャガタイ、オゴタイ軍
第3軍 ジュチ軍
第4軍 ジェベ、スブタイ、トクチャル
     三個師団
[21]
6メートルの高さから騎馬のままインダスに飛び込み、モンゴルの追跡をかわす
[22]
この頃から本隊はゆっくり帰り支度
[23]
発病して8日、
8月25日(18日とも)
六盤山にて崩御
[24]
ケルレン河畔、
コデエ・アラルの地にて

[25]
耶律楚材がんばる
[26]
この頃の中書省は大ハーンの秘書官
[27]
9月
[28]
オゴデイの息子、
コデンが軍を率いる
[29]
4月9日 リーグニッツの戦い
4月10日 モヒの戦い
[30]
戦争やるより王様一人暗殺した方が、死ぬ人数少なくてよっぽど平和主義という、一理あるが対処に困る集団。
[31]
ウリャンハダイは
スブタイの息子
[32]
モンケは戦病死
赤痢とも言われる
[33]
モンゴルの不敗神話の崩壊
相手のエジプト軍も、モンゴル軍と同じような編成のキプチャクの遊牧民奴隷軍

[34]
この辺から中書省は民生の執政機関になる
[35]
枢密院は軍政機関
中書省から軍制が独立して発足

[36]
御史台は官吏観察機関
[37]
チベット層パスパに作らせる
それまでのウイグル文字の借用より、モンゴル語を正確に表記できるが、あまり普及しなかった

[38]
尚書省は経済、財政をつかさどる機関。
アフマッドが長官になると、中書省を吸収し、その他の機関も侵食していった

[39]
ちょっと揉んでみろ。
[40]
中国の壇ノ浦。
幼帝は海に没した。
[41]
大量に降伏してきた南宋兵を放っとくと危ないので、海の向こうに捨ててきちゃえって意味もあった。
10万いた兵の大半は、鋤鍬持った屯田兵だった

[42]
五投下は漢人軍閥
[43]
正月10日
[44]
ハイシャン、アーユルパリドラの母、ダキ・ハトンは、コンギラト族
[45]
コンギラト派は勢力を失う
[46]
モロッコのベルベル人、イブン・バットゥータ、キプチャクの黄金のオルドを訪問する