西暦セイレキ 干支エト 事象ジショウ 人物ジンブツ年齢ネンレイ〖推定スイテイ〗
630   (現在ゲンザイの内ウチモンゴル自治区ジチクホロン・ブイル盟メイの境サカイ、アルグン河の南に住スんでいた)蒙モウ兀コツ(蒙モウ瓦カワラ)室シツ韋イといわれる部族ブゾクが、史書シショに出デてくるモンゴル族ゾクの初ハジめての記録キロク[1]                    
1015 乙オツ卯ウ 遼リョウの耶ヤ律リツ世セイ良ヨ、ジャライル部ブを伐バツつ
敗ヤブれて移動イドウしたジャライル部ブ、モンゴルのハイドの一族イチゾクと衝突ショウトツ、皆殺ミナゴロしにする
(一人ヒトリ逃ノガれたハイドは叔父オジナチン・バートルの助タスけを得エて成人セイジンした後ノチ、ジャライル部ブを攻セめてこれを臣下シンカにした)
                   
1084 甲子キノエネ ハイドの孫マゴトンビナイ・ハン、遼リョウに使ツカいを送オクる                    
   
トンビナイの子コカブル・カン、金キンに朝貢チョウコウする[2]
                   
1149〜1160   アンバガイ・ハン、タタルに捕トラわれ、金キン国コクに引ヒき渡ワタされて殺コロされる
(金、海陵王の在位中といわれる)
テムジン                  
1160 庚カノエ辰タツ                    
1161 辛カラ巳ミ                    
1162 壬ミズノエ午ウマ テムジン誕生タンジョウ 1[3]                  
1163 癸ミズノト未ヒツジ   2                  
1164 甲コウ申サル   3                  
1165 乙オツ酉トリ   4 ムカリ                
1166 丙ヘイ戌イヌ   5                
1167 丁テイ亥ガイ   6                
1168 戊ツチノエ子コ   7                
1169 已スデ丑ウシ   8 0                
1170 庚カノエ寅トラ
ボルテと婚約、オンギラトに預けられる
父チチエスガイ、タタルに毒殺ドクサツされる
9 1                
1171 辛カラ卯ウ   10 2                
1172 壬ミズノエ辰タツ   11 3                
1173 癸ミズノト巳ミ   12 4   ボロクル            
1174 甲コウ午ウマ   13 5              
1175 乙オツ未ヒツジ   14 6     シギ・クトク        
1176 丙ヘイ申サル   15 7            
1177 丁テイ酉トリ   16 8            
1178 戊ツチノエ戌イヌ ボルテと結婚ケッコン
ボオルチュ、ジェルメ、チンベ、チラウン兄弟キョウダイ従シタガう
17 9   1 チャガタイ        
1179 已スデ亥ガイ   18 10 ジュチ 2        
1180 庚カノエ子ネ   19 11 3 1[4]        
1181 辛カラ丑ウシ メルキトにボルテを奪ウバわれる 20 12 4 2 オゴデイ      
1182 壬ミズノエ寅トラ
ボルテを奪ウバい返カエす ジュチ誕生タンジョウ
21 13 0 5 3      
1183 癸ミズノト卯ウ   22 14 1 6 4      
1184 甲コウ辰タツ   23 15 2 7 1 5      
1185 乙オツ巳ミ   24 16 3 8 2 6      
1186 丙午ヒノエウマヘイ   25 17 4 9 3 7 1      
1187 丁未ヒツジ   26 18 5 10 4 8 2 トゥルイ    
1188 戊申サル   27 19 6 11 5 9 3    
1189 已酉トリ 第一次ダイ1ジ即位ソクイ
十三13翼ツバサの戦タタカい(対タイジャムカ)[5]
28 20 7 12 6 10 4    
1190 庚戌イヌ   29 21 8 13 7 11 5    
1191 辛亥ガイ   30 22 9 14 8 12 6 0    
1192 壬子ネ   31 23 10 15 9 13 7 1    
1193 癸丑ウシ   32 24 11 16 10 14 8 2    
1194 甲寅トラ 金キン、ケレイトと同盟ドウメイしてタタルを討ウつ
トオリルに「王オウ」テムジンに「ジャウト・フリ」の称号ショウゴウが与アタえられる[6]
33 25 12 17 11 15 9 3    
1195 乙卯ウ ケレイトからジャア・ガンボが亡命ボウメイしてくる 34 26 13 18 12 16 10 4    
1196 丙辰タツ ワン・ハンと同盟ドウメイ[7] 35 27 14 19 13 17 11
5[8]
   
1197 丁巳ミ 春ハル、ジュルキン族ゾクを討ウつ
秋アキ、メルキトを討ウつ[9]
36 28 15 20[10] 14 18 12 6    
1198 戊午ウマ トオリル・ハン、メルキトを討ウつ[11] 37 29 16 21 15 19 13 7    
1199 已未ヒツジ ケレイトと連合レンゴウしてナイマンを討ウとうとするが、ワン・ハンに置オき去ザりにされ失敗シッパイ 38 30 17 22 16 20 14 8    
1200 庚申サル ケレイトと連合レンゴウしてタイチュウトを破ヤブる
モンゴル諸ショ氏族シゾクとタタルの連合軍レンゴウグンを、ブイル・ノールで破ヤブる
冬フユ、タタル部族ブゾクを破ヤブる
39 31 18 23 17 21 15 9    
1201 辛酉トリ ジャムカが反ハンワン・ハン、反ハンテムジンの勢力セイリョクを集結シュウケツさせ、グル・ハーンに推戴スイタイされるが、その軍グンをテムジンが破ヤブる
オンギラトが合流ゴウリュウ
40 32 19 24 18 22 16 10    
1202 壬戌イヌ ブイル・ノール湖畔コハンにタタルを討ウち、6氏族シゾクのうち2氏族シゾクを制圧セイアツした
ナイマン、オイラト、メルキト連合軍レンゴウグンがワン・ハンとテムジンに向ムかって来キたので、コイテンの地で破る
ジェベ従シタガう[12]
41 33 20 25 19 23 17 11    
1203 癸亥ガイ ジャムカがワン・ハンに取トり入イり、テムジンを攻撃コウゲキ
バルジュナ湖コまで撤退テッタイ
反撃ハンゲキして勝利ショウリし、ワン・ハンは殺コロされる
42 34 21 26 20 24 18 12    
1204 甲子ネ
ナイマンに勝利し、ナイマン王タヤン・ハーン戦死 
ジャムカも捕らえて殺す 
タタルの残党も壊滅させ、草原を統一 
ホアス・メルキト族のダイル・ウスンの娘、
クランを娶る
タタ=トンガに命メイじてウイグル語ゴのアルファベットを使ツカってモンゴル語ゴを表記ヒョウキさせる[13]
43 35 22 27 21 25 19 13 バトゥ  
1205 乙丑ウシ 第一次ダイ1ジ西夏セイカ遠征エンセイ 44 36 23 28 22 26 20 14  
1206 丙寅トラ 第ダイ二次ニジ即位ソクイ「チンギス・ハーン」と名乗ナノる[14] 45 37 24 29 23 27 21 15 0  
1207 丁卯ウ 第二時ダイ2ジ西夏セイカ遠征エンセイ
ジュチ、林ハヤシの民タミを征服セイフク ボロクル戦死センシ
テプ・テングリ殺コロされる
46 38 25 30 24 28 22 16 1  
1208 戊辰タツ ナイマンに遠征エンセイ、征服セイフク
ナイマン王子オウジクチュルク、カラ・キタイに亡命ボウメイ
47 39 26 ボロクル 25 29 23 17 2  
1209 已スデ巳ミ 第ダイ三3次ジ西夏セイカ遠征エンセイ、降伏コウフクさせる
ウイグル王国オウコク服従フクジュウ
48 40 27 26 30 24 18 3  
1210 庚午ウマ 金キンと断交ダンコウ 49 41 28 27 31 25 19 4  
1211 辛未ヒツジ
ナイマン皇子オウジクチュルク、カラ=キタイを乗ノっ取トる
それまでカラ=キタイに従シタガっていたカルルク族ゾクがモンゴルに帰属キゾク
チンギスハン、金キンを親シン征セイ[15]
50 42 29 28 32 26 20 5  
1212 壬申サル   契丹キッタン族ゾク耶ヤ律リツ留リュウ哥ウタ、金キンに叛ソムく 51 43 30   29 33 27 21 6 フビライ
1213 癸酉トリ   金キン皇帝コウテイ衛エイ紹ショウ王オウ殺コロされる
  モンゴル軍グンは、三3軍グンに分ワかれて南下ナンカ
  90もの都市トシを劫ゴウ掠リャク[16]
52 44 31   30 34 28 22 7
1214 甲戌イヌ   金キンとモンゴル和議ワギ(金キン公コウ主シュ嫁入ヨメイり)
  講和コウワ直後チョクゴに金キン、開封カイフウへ遷都セント
53 45 32   31 35 29 23 8
1215 乙亥ガイ   モンゴル軍グン南下ナンカ、中チュウ都ト陥落カンラク
  耶ヤ律リツ楚ソ材ザイ降フる
54 46 33   32 36 30 24 9
0
1216 丙子ネ 対タイ金キン戦センをムカリに任マカせ、チンギスハン、モンゴルへ帰還キカン
夏ナツ、ジュチ軍グン、ホラズム王オウムハンマドの軍グンと鉢合ハチアわせ、あわや殺コロしそうになる[17]
55 47 34   33 37 31 25 10 1
1217 丁丑ウシ
ムカリ、満州マンシュウ方面ホウメンを制圧セイアツし、モンゴルへ帰還キカン。
ムカリに国王コクオウの称号ショウゴウを与アタえ、黄河コウガ以南イナンの征服セイフクに当アたらせた
56 48 35 ボロクル[18] 34 38 32 26 11 2
1218 戊寅トラ 耶律楚材、チンギスに会う(二九歳)
ジェベ、カラ・キタイに進軍シングン、ナイマン王子オウジクチュルクを殺コロす
オトラル事件ジケン[19]
57 49 36   35 39 33 27 12 3
1219 已卯ウ
西ニシ征セイ開始カイシ[20]
58 50 37   36 40 34 28 13 4
1220 庚カノエ辰タツ 2月ガツ、ブハラ陥落カンラク
3月ガツ、サマルカンド陥落カンラク
12月ガツ、ホラズムのスルタン・ムハンマド、カスピ海カイの小島コジマで死シぬ
59 51 38   37 41 35 29 14 5
1221 辛カラ巳ミ バルフ、メルヴ陥落カンラク
4月ガツ、ウルゲンチ、ニシャプール陥落カンラク
秋アキ、バーミヤンでチャガタイの子モエトゥゲン、流れ矢に当たり戦死
ジャラール・ウッディーン、ガズニに兵ヘイを集アツめモンゴル軍グン3万マンを破ヤブるが、軍グンに内紛ナイフンが起オこり、インダス河ガワに退却タイキャク[21]
60 52 39   38 42 36 30 15 6
1222 壬ミズノエ午ウマ ジェベ、スブタイ別働ベツドウ軍グンをスルタン・ムハンマド追跡ツイセキのため西ニシへ派遣ハケン[22] 61 53 40   39 43 37 31 16 7
1223 癸ミズノト未ヒツジ 5月ガツ、カルカ河畔カハンでロシア諸侯ショコウ軍グンを撃破ゲキハ
6月ガツ、ヘラト陥落カンラク
62 54 41   40 44 38 32 17 8
1224 甲コウ申サル スブタイ別働ベツドウ軍グン、イルティシュ河畔カハンでチンギス軍グンに合流ゴウリュウ 63 ムカリ 42   41 45 39 33 18 9
1225 乙オツ酉トリ 正月ショウガツ、モンゴルへ帰還キカン 64 43   42 46 40 34 19 10
1226 丙ヘイ戌イヌ 春ハル、第四次ダイ4ジ西夏セイカ遠征エンセイ 65 44   43 47 41 35 20 11
1227 丁テイ亥ガイ
8月ガツ、チンギス・ハーン死去シキョ
西夏セイカ滅亡メツボウ[23]
66   ジュチ   44 48 42 36 21 12
1228 戊ツチノエ子コ トゥルイ、監カン国コクの任ニンに就ツく
『元ゲン朝チョウ秘史ヒシ』巻マキ一1〜巻マキ十10書カかれる
テムジン     45 49 43 37 22 13
1229 已スデ丑ウシ クリルタイにてオゴデイ・大ダイハーンに推戴スイタイされる[24]       46 50 44 38 23 14
1230 庚カノエ寅トラ 旧キュウ金キン領リョウを区画クカク整理セイリし、徴税チョウゼイ法ホウを整備セイビ
駅伝エキデン(ジャムチ)制セイが敷シかれる[25]
        47 51 45 39 24 15
1231 辛カラ卯ウ 中チュウ書ショ省ショウに耶ヤ律リツ楚ソ材ザイ就任シュウニン
モンゴル軍グン、高麗コウライを攻セめる 高麗コウライは激ハゲしく抵抗テイコウ[26]
        48 52 46 40 25 16
1232 壬ミズノエ辰タツ
モンゴル軍グン、高麗コウライへ進攻シンコウ(1259年ネンまで続ツヅく)
モンゴル軍グン、開封カイフウを包囲ホウイ
        49 53 47 41[27] 26 17
1233 癸ミズノト巳ミ ホラズム母ボ后コウテルケン・ハートゥーン死去シキョ         50 54 48 トゥルイ 27 18
1234 甲コウ午ウマ 金キン滅亡メツボウ
クリルタイ
開催カイサイ、世界セカイ各地カクチ(主オモにヨーロッパと南宋ナンソウ)への征服セイフク計画ケイカク決キまる
カラコルムの
建設ケンセツが決キまる
        51 55 49 28 19
1235 乙オツ未ヒツジ カラコルム建設ケンセツ         52 56 50   29 20
1236 丙ヘイ申サル バトゥヨーロッパ遠征エンセイ開始カイシ         53 57 51   30 21
1237 丁テイ酉トリ
  チンギスの第ダイ2妃ヒクランの息子ムスコクルゲン、
  コロムナ城ジョウの戦タタカいで戦セン死シ
        54 58 52   31 22
1238 戊ツチノエ戌イヌ モスクワ、ウラジーミル陥落カンラク イラクへ侵攻シンコウ         55 59 53   32 23
1239 已スデ亥ガイ モンゴル軍グン、チベットへ侵攻シンコウ[28]         56 60 54   33 24
1240 庚カノエ子ネ キエフ陥落カンラク         57 61 55   34 25
1241 辛カラ丑ウシ 12月ガツ11日ニチ、オゴデイ死去シキョ[29]         58 62 56   35 26
1242 壬ミズノエ寅トラ バトゥ、遠征軍を返す         チャガタイ 63 オゴデイ   36 27
1243 癸ミズノト卯ウ           64   37 28
1244 甲コウ辰タツ 5月ガツ、耶ヤ律リツ楚ソ材ザイ死去シキョ(五四歳54サイ)         65   38 29
1245 乙オツ巳ミ           66   39 30
1246 丙午ヒノエウマヘイ オゴデイの未亡人ミボウジントレゲネが監カン国コクにたち、クリルタイを召集ショウシュウするが、バトゥはボイコット
グユク、大ダイハンに即位ソクイ
        67   40 31
1247 丁未ヒツジ           68     41 32
1248 戊申サル グユク死去シキョ           69     42 33
1249 已酉トリ バトゥ、アラ・カマク山サンにクリルタイを召集ショウシュウするが、チャガタイ、オゴデイ両家リョウケがボイコット           70     43 34
1250 庚戌イヌ バトゥ、オノン河カワ、ケルレン河ガの源ミナモト、チンギスの大ダイオルドでクリルタイを召集ショウシュウするが、チャガタイ家ケ、オゴデイ家ケまたもボイコット           71     44 35
1251 辛亥ガイ モンケ即位ソクイ           72     45 36
1252 壬子ネ フビライに雲南ウンナンの征服セイフクを命メイじる
『元ゲン朝チョウ秘史ヒシ』続ゾク巻カン一1の241節セツ〜巻カン二2の273節セツ書カき加クワえられる
          73     46 37
1253 癸丑ウシ
フランス王ルイ9世の使節ルブルクの一行、バトゥに謁見エッケンする
フビライが大理ダイリ王国オウコクを滅ホロぼす
          74     47 38
1254 甲寅トラ フビライ雲南ウンナンより凱旋ガイセン
モンゴル軍グンの高麗コウライ侵攻シンコウ苛烈カレツ
          75     48 39
1255 乙卯ウ バトゥ死去シキョ ベルケが継ツぐ           76     49 40
1256 丙辰タツ フラグ、ペルシャの地チへ遠征エンセイ
暗殺アンサツ教団キョウダンイスマイル派ハの拠点キョテンアラムート陥落カンラク[30]
          77     バトゥ 41
1257 丁巳ミ 雲南ウンナン遠征軍エンセイグンのウリャンハダイ、ヴェトナムに侵入シンニュウ[31]           78     48 42
1258 戊午ウマ フラグがバクダットのアッバース朝チョウを滅ホロぼす
高麗コウライ内部ナイブで政変セイヘンが起オこり、モンゴルとの和議ワギが進ススむ
          79     49 43
1259 已未ヒツジ 夏ナツ、高麗コウライ国コク太子タイシ王オウ倎テン、モンゴルに入朝ニュウチョウ
高麗コウライ国王コクオウが没ボッしたので、帰国キコクして即位ソクイ
秋アキ、四川シセンの陣中にてモンケ死去[32]
          80     50 44
1260 庚申サル アイン・ジャールートの戦タタカい、モンゴル軍グンがはじめて敗ヤブれる
フビライ即位ソクイ(世祖セイソ) アリクブカ即位ソクイ
フビライ中チュウ書ショ省ショウを設モウけ、中チュウ書ショ平ヘイ章ショウ政事セイジに王オウ文ブン統トウを任ニンじる
アリク・ブカの乱ラン[33]
          81     51 45
1261 辛酉トリ
ジャライル王家オウケのバートル死シ去キョ
チンキムを燕エン王オウに封フウじ、守シュ中チュウ書ショ令レイに任ニンじ、中チュウ書ショ省ショウを監督カントクさせる[34]
          82     52 46
1262 壬戌イヌ 漢人カンジン軍閥グンバツの李リ璮タン反乱ハンラン、すぐ鎮圧チンアツされる
王オウ文ブン統トウ失脚シッキャク
          シギ・クトク     53 47
1263 癸亥ガイ 軍政グンセイをつかさどる枢密院スウミツイン設立セツリツ、
チンキムが判ハン枢密院スウミツイン事コトを兼カねる[35]
              54 48
1264 甲子ネ アリクブカ投降トウコウ
(『元ゲン朝チョウ秘史ヒシ』274節セツ〜281節セツが書カき加クワえられ、完成カンセイした?)
              55 49
1265 乙丑ウシ フラグ死去シキョ               56 50
1266 丙寅トラ 大都ダイト建設ケンセツ開始カイシ アリクブカ死去シキョ               57 51
1267 丁卯ウ 大都ダイト遷都セント                 ベルケ 52
1268 戊辰タツ
四角形吹き出し: カマラを北辺の鎮として、チンギスの4大オルドとモンゴル本土を領せしめた
四角形吹き出し: テムルに子がなかったので、皇后ブルガン・ハトン(バヤウト氏族出身)はマンガラ(チンキム皇太子の弟)の3男、アーナンダをハーンに迎えようとするが、コンギラト氏族が対抗、テムル・ハーンの兄ダルマ・パーラの次男アーユルパリドラを擁してクーデターを起こし、アーナンダを殺し、ブルガン・ハトンを追放。
アーユルパリドラは兄ハイシャンを迎え、ハーンに擁立した
御ギョ史シ台ダイを設モウける
ハイドゥ(オゴデイの孫マゴ)がフビライに開戦カイセン
(ハイドゥの乱ラン)[36]
                53
1269 已スデ巳ミ パスパ文字モジ創設ソウセツ[37]                 54
1270 庚午ウマ 尚ショウ書ショ省ショウを設モウける
アフマッドが平ヘイ章ショウ政事セイジに任ニンじられる[38]
                  55
1271 辛未ヒツジ 国号コクゴウを大ダイ元ゲン大ダイモンゴル国コクとする                   56
1272 壬申サル 尚書省と中書省合併ガッペイされる                   57
1273 癸酉トリ 元ゲン軍グン、樊マガキ城ジョウ、襄ジョウ陽ヨウを陥オチイす
チャブイを皇后コウゴウ、チンキムを皇太子コウタイシとする
                  58
1274 甲戌イヌ 第一次ダイ1ジ日本ニホン遠征エンセイ(文永ブンエイの役エキ)[39]                   59
1275 乙亥ガイ (マルコ・ポーロ、上ジョウ都トに入城ニュウジョウ)
文ブン天テン祥ショウ、勤王キンノウの挙兵キョヘイ
ハイドゥとドワ(チャガタイ家ケ)の連合軍レンゴウグン、西セイ境キョウを侵オカし、皇子オウジノムガン、右ウ丞ジョウ相ショウアントン、軍グンを率ヒキいて対峙タイジ
                  60
1276 丙子ネ 杭クイ州シュウ陥落カンラク、南宋ナンソウ降伏コウフク                   61
1277 丁丑ウシ シリギ(モンケ・ハーンの遺児イジ)反乱ハンラン、ノムガンとアントンを捕トらえてハイドゥに引渡ヒキワタす
中チュウ書ショ右ウ丞ジョウ相ショウバヤン、急行キュウコウしてシリギを撃破ゲキハ
                  62
1278 戊寅トラ 文天祥、元ゲン軍グンに捕トラわれる                   63
1279 已卯ウ ��ガイ山ヤマの戦タタカい、南宋ナンソウ滅亡メツボウ
チンキム皇太子コウタイシ、父チチに代カわり国政コクセイを決済ケッサイする[40]
                  64
1280 庚カノエ辰タツ                     65
1281 辛カラ巳ミ 第二次ダイ2ジ日本ニホン遠征エンセイ(弘安コウアンの役エキ)
皇后コウゴウチャブイ死去シキョ[41]
                  66
1282 壬ミズノエ午ウマ 文天祥処刑ショケイされる
アフマッド殺コロされる
                  67
1283 癸ミズノト未ヒツジ 広東カントン、福建フッケンで民衆ミンシュウの反乱ハンラン起オこる                   68
1284 甲コウ申サル 至イタル元モト鈔ショウ(紙幣シヘイ)発行ハッコウ。
東方トウホウの当主トウシュナヤン、元ゲン朝チョウに反カエし敗ハイ死シ
安アン南ナンを攻セめ交コウ趾アト城シロを抜ヌく
五ゴ投下トウカ、チンキム皇太子コウタイシに直属チョクゾク
皇子オウジノムガン、アントン、方面ホウメンされて元朝ゲンチョウに復帰フッキ[42]
                  69
1285 乙オツ酉トリ 12月ガツ、チンキム皇太子コウタイシ死去シキョ(四三43歳サイ)                   70
1286 丙ヘイ戌イヌ                     71
1287 丁テイ亥ガイ ハイドゥと呼応コオウし、東方トウホウ三3王家オウケ(ナヤン、ハダン)反乱ハンラン
フビライ親シン征セイしてナヤンを撃破ゲキハ
                  72
1288 戊ツチノエ子コ 皇孫コウソンテムル(チンキムの遺児イジ)軍グンを率ヒキい、ハダンを鎮圧チンアツ                   73
1289 已スデ丑ウシ ハイドゥ軍グン、皇孫コウソンカマラ(チンキムの遺児イジ)軍グンを撃破ゲキハ                   74
1290 庚カノエ寅トラ (マルコ・ポーロ、泉州センシュウから帰国キコクの途トにつく)                   75
1291 辛カラ卯ウ                     76
1292 壬ミズノエ辰タツ 通トオ州シュウ、大都ダイト間カンの恵メグ通トオ河カワ完成カンセイ
皇孫コウソンカマラを晋シン王オウとする
                  77
1293 癸ミズノト巳ミ バヤンを召還ショウカンし、皇孫コウソンテムルを北辺ホクヘン総司令官ソウシレイカンとして派遣ハケン                   78
1294 甲コウ午ウマ フビライ死去シキョ
皇孫コウソンテムル(成セイ宗ソウオルジェイド・ハーン)即位ソクイ[43]
                  79
1295 乙オツ未ヒツジ                     フビライ
1296 丙ヘイ申サル                    
1297 丁テイ酉トリ                    
1298 戊ツチノエ戌イヌ                    
1299 已スデ亥ガイ                    
1300 庚カノエ子ネ チンキムの妻ツマココジン・ハトン死シ去キョ  
1301 辛カラ丑ウシ ハイドゥ、オゴデイ家ケ、チャガタイ家ケの兵力ヘイリョクを動員ドウインしてモンゴル高原コウゲンに進攻シンコウ。
ハイシャン(チンキムの孫マゴ)らの軍グンに勝利ショウリするが、死シ去キョ 子コのチャバルが継ツぐ
 
1302 壬ミズノエ寅トラ 晋王カマラ死シ去キョ イェスン・テムルが継ツぐ  
1303 癸ミズノト卯ウ    
1304 甲コウ辰タツ    
1305 乙オツ巳ミ ハイドゥの子コチャバル、元ゲン朝チョウに和ワを請コう
チャバル(オゴデイ系ケイ)とドワ(チャガタイ系ケイ)衝突ショウトツ
 
1306 丙午ヒノエウマヘイ チャバル、ドワに降伏コウフク、オゴデイ家ケ滅ホロびる  
1307 丁未ヒツジ テムル没ボツ ハイシャン(武ブ宗ソウクルク・ハーン)即位ソクイ[44]  
1308 戊申サル    
1309 已酉トリ    
1310 庚戌イヌ    
1311 辛亥ガイ ハイシャン没ボツ 
アーユルパリドラ(仁ジン宗ソウブヤント・ハーン)即位ソクイ
 
1312 壬子ネ    
1313 癸丑ウシ    
1314 甲寅トラ    
1315 乙卯ウ 科挙カキョ実施ジッシ  
1316 丙辰タツ ダキ、ハトン皇太后コウタイゴウ、アーユルパリドラの
長子チョウシシッディパーラを皇太子コウタイシに立タてる
 
1317 丁巳ミ    
1318 戊午ウマ    
1319 已未ヒツジ    
1320 庚申サル アーユルパリドラ没ボツ 
シッディパーラ(英エイ宗ソウゲゲーン・ハーン)即位ソクイ
 
1321 辛酉トリ ハイシャンの次男ジナントブティムール、海南カイナン島トウに追放ツイホウされる  
1322 壬戌イヌ ダキ・ハトン皇太后コウタイゴウ死シ去キョ  
1323 癸亥ガイ 四角形吹き出し: イェスン・テムルは晋王カマラの息子
大ダイ元ゲン通ツウ制セイを領リョウ布フ
英エイ宗ソウ、コンギラト派ハに殺コロされ、イェスンティムル(泰タイ定サダ帝テイ)即位ソクイ
 
1324 甲子ネ    
1325 乙丑ウシ    
1326 丙寅トラ    
1327 丁卯ウ
四角形吹き出し: エンティムールは、北辺防衛のキプチャク人軍団の司令官
四角形吹き出し: トブティムールは、海南島に流されていた、ハイシャンの次男
 
 
1328 戊辰タツ イェスンティムル没ボツ
皇太子コウタイシラキパク上ジョウ都トにおいて即位ソクイ(元ゲンの天テン順ジュン帝テイ)
重臣ジュウシンエンティムール、トブティムール(文ブン宗ソウジャヤート・ハーン)を擁立ヨウリツ
内乱ナイランとなる[45]
 
1329 已スデ巳ミ 文ブン宗ソウ、兄アニクシャラ(明メイ宗ソウフトゥクト・ハーン)に譲位ジョウイするが、明メイ宗ソウはエンティムールに殺コロされ、文ブン宗ソウ再フタタび即位ソクイ  
1330 庚午ウマ    
1331 辛未ヒツジ    
1332 壬申サル 四角形吹き出し: クシャラ・ハーンの遺児
文ブン宗ソウトブティムール没ボッする
イリジンパル(寧ネイ宗ソウ)擁立ヨウリツされるが没ボッする[46]
 
1333 癸酉トリ エンティムール死去シキョ
明メイ宗ソウクシャラ・ハーンの長子チョウシトゴンティムール(恵メグミ宗シュウウハート・ハーン)即位ソクイ
 
1334 甲戌イヌ    
1335 乙亥ガイ 科挙カキョ廃止ハイシ
イル・ハーン家ケ断絶ダンゼツ
エンティムールの息子ムスコタンギシのクーデターをメルキト族ゾクの将軍ショウグンバヤンが鎮圧チンアツ 独裁権ドクサイケンを握ニギる
 
1336 丙子ネ    
1337 丁丑ウシ 白シロ蓮ハス教キョウ系ケイの胡コ潤ウルオ児ジ、信シン陽ヨウ州シュウに蜂起ホウキ  
1338 戊寅トラ    
1339 已卯ウ    
1340 庚カノエ辰タツ バヤンの弟オトウト、マジャルタイの息子ムスコトクトアがクーデターを起オこす
バヤンは追放ツイホウになり、死シ去キョ
 
1341 辛カラ巳ミ    
1342 壬ミズノエ午ウマ    
1343 癸ミズノト未ヒツジ 遼リョウ、金キン、宋ソウの三3正史セイシの編纂ヘンサン始ハジまる  
1344 甲コウ申サル 黄河コウガ大ダイ氾濫ハンラン、河カワ道ドウ北キタに移動イドウ
トクトア辞職ジショク
 
1345 乙オツ酉トリ 三3正史セイシ成ナる  
1346 丙ヘイ戌イヌ    
1347 丁テイ亥ガイ 四角形吹き出し: 方国珍は塩商人
マジャルタイ、トクトア父子フシを甘粛カンシュクに追放ツイホウ
 
1348 戊ツチノエ子コ 方ホウ国コク珍チンの乱ラン  
1349 已スデ丑ウシ 再フタタびトクトアを政権セイケンに就ツける  
1350 庚カノエ寅トラ    
1351 辛カラ卯ウ
四角形吹き出し: 白蓮教はゾロアスター系の宗教
韓山童の予言により反乱を起こす
四角形吹き出し: 母は高麗貴族の奇皇后
四角形吹き出し: 張士誠も塩商人
四角形吹き出し: トクトアの死によって軍閥は除かれたが、軍隊自体も弱まってしまう
黄河コウガの修復シュウフクに成功セイコウ
白ハク蓮ハス教徒キョウトが反乱ハンランを起オこす 紅コウ巾キンの乱ラン
 
1352 壬ミズノエ辰タツ トクトア、徐ジョ州シュウで紅巾コウキン軍グンに打撃ダゲキを与アタえる  
1353 癸ミズノト巳ミ 皇子オウジアーユシュリーダラーを皇太子コウタイシに立タてる
張チョウ士シ誠セイ、反乱ハンランを起オこす
 
1354 甲コウ午ウマ トクトア、乱ラン平定ヘイテイに出征シュッセイするも解任カイニンされ、追放ツイホウ  
1355 乙オツ未ヒツジ トクトア、雲南ウンナンの配所ハイショで毒殺ドクサツ
韓山童の息子韓林児、安徽省アンキショウ亳ハク州シュウで即位ソクイ
大タイ宋ソウ皇帝コウテイ小ショウ明メイ王オウと称ショウする
 
1356 丙ヘイ申サル 四角形吹き出し: 恭愍王は母方でチンギスの血を引いている
高麗コウライの恭キョウ愍ビン王オウ、モンゴルに反抗ハンコウ運動ウンドウを起オこし、高麗コウライ国内コクナイの奇キ皇后コウゴウ勢力セイリョクを一掃イッソウ 
朝鮮チョウセン半島ハントウ北辺ホクヘンの城ジョウ市シをモンゴルから奪ウバい返カエすが、反対派ハンタイハを一掃イッソウするとトゴン・テムル・ハーンと和睦ワボク
 
1357 丁テイ酉トリ    
1358 戊ツチノエ戌イヌ    
1359 已スデ亥ガイ 河南カナンのウイグル人ジン、チャガーン・テムル、紅巾コウキン軍グンから根拠地コンキョチ開封カイフウを奪ウバい返カエし、紅巾コウキン政府セイフに大打撃ダイダゲキを与アタえる  
1360 庚カノエ子ネ    
1361 辛カラ丑ウシ    
1362 壬ミズノエ寅トラ チャガーン・テムル戦死センシ
甥オイのココ・テムルが軍閥グンバツを継ツぐ
 
1363 癸ミズノト卯ウ    
1364 甲コウ辰タツ 山西サンセイの軍閥グンバツボロ・テムル、反ハン皇太子コウタイシ派ハと手テを結ムスび、大都ダイトを占領センリョウ
皇太子コウタイシアーユシュリーダラは太原オオハラに出奔シュッポン、ココ・テムルの保護ホゴを求モトめる
 
1365 乙オツ巳ミ ボロ・テムル、ココ・テムルに滅ホロぼされる
皇太子コウタイシは宮廷キュウテイに復帰フッキ
 
1366 丙午ヒノエウマヘイ
四角形吹き出し: 1月23日 朱元璋、南京で即位
 9月7日 トゴン・テムル・ハーン
       大都を脱出 北帰
9月14日 明軍、大都入城
四角形吹き出し: ここより、歴史書では北元と呼ばれるようになる
朱シュ元璋ゲンショウ、大タイ宋ソウ皇帝コウテイ韓カン林リン児ジを殺コロす
 
1367 丁未ヒツジ    
1368 戊申サル トゴン・テムル・ハーン北ホク帰キ 上ジョウ都トに拠ヨる
朱シュ元ゲン璋ショウ即位ソクイ、大ダイ明ミン皇帝コウテイとなる
 
1369 已酉トリ 上ジョウ都トも明ミン軍グンの手テに落オちる 応オウ昌ショウ府フに拠ヨる  
1370 庚戌イヌ トゴン・テムル・ハーン、応オウ昌ショウ府フで没ボッする
アーユシュリーダラ(昭ショウ宗ソウビリクト・ハーン)が継ツぐ
応オウ昌ショウ府フも明ミン軍グンの手テに落オち、昭ショウ宗ソウは北キタに逃ノガれる
数スウ百人ヒャクニンのモンゴル皇族コウゾク、明ミン軍グンの捕虜ホリョとなる
朱シュ元璋ゲンショウ、トゴン・テムル・ハーンの死シを知シり、順ジュン帝テイと送オクり名ナする
 
1371 辛亥ガイ    
1372 壬子ネ アーユシュリーダラ、ココ・テムルと合流ゴウリュウ
ココ・テムル・、トーラ河畔カハンで15万マンの明ミン軍グンを撃破ゲキハ、数万人スウマンニンを殺コロす
 
1373 癸丑ウシ    
1374 甲寅トラ    
1375 乙卯ウ ココ・テムル死シ去キョ  
1376 丙辰タツ    
1377 丁巳ミ    
1378 戊午ウマ アーユシュリーダラ没ボツ 
弟オトウトのトグズ・テムル(天テン元ゲン帝テイウルハル・ハーン)が継ツぐ
 
1379 已未ヒツジ    
1380 庚申サル    
1381 辛酉トリ    
1382 壬戌イヌ    
1383 癸亥ガイ    
1384 甲子ネ    
1385 乙丑ウシ    
1386 丙寅トラ    
1387 丁卯ウ    
1388 戊辰タツ トグズ・テムル・ハーン、ブイル・ノール湖畔で明軍に大敗
カラコルム目指メザして落オちてゆく途中トチュウ、アリク・ブカ家ケのイェスデルに殺コロされ、フビライ家ひとまず断絶
イェスデルがハーンに立タつ(ジョリクト・ハーン)
 

[1]
『旧唐書』『新唐書』北狄列伝
[2]
酔っ払って金の皇帝のヒゲを引っ張ったらしい。おいおい・・・ν
[3]
1155年説(享年72歳、集史)
1161年説(享年66歳、元史)
1162年説(享年65歳、秘史)


[4]
シギ=クトクはホエルンが育てたとされているが、ボルテが育てたという説もあり。
(これだとチンギスの弟ではなく、息子に準ずる扱いになる)

[5]
同じモンゴル族のタイチュウト氏と敵対するために、キヤト氏をまとめるハンとして推戴された。(本当にあったことか、疑問視する向きもアリ)
まだチンギスとは名乗っておらず、あまり地位も高くなく、若いもんが働け使いっ走りという感じ。
[6]
「ジャウト・フリ」とは「百人隊長」程の意味。
いいかげんに低い地位を与えられた屈辱的なことと見る説と、低い官職でも金の傘下に入れたことで庇護を受けられるようになり、重要なことだったとする説アリ。
[7]
同盟というより、その臣下になった
[8]
タタルの残党 カルギル・シラに横抱きにかっさらわれそうになったところを、ボロクルの妻、アルタニに助けられる。
[9]
すべての捕虜をワン・ハンに贈った
(ワン・ハンは弟に部族をのっとられて追い出されて、砂漠を放浪してたらしい・・・)
[10]
ジュルキン族討滅の際にテムジン陣営に入ったといわれ、すぐ戦闘に参加しているので、もう少し年上かもしれない。
でも、前の年にアルタニがトゥルイを助けてるんだよな・・・
変だよな・・・
[11]
お返しはもらえなかった
(メルキトの持つ鉄が欲しかったのだとする説あり)
[12]
金の長城内に家族を匿ってから出陣
(金の傘下に入っていたので、こういうことが出来るわけです)
[13]
これが現在まで通用しているモンゴル文字の起源
[14]
この年がモンゴル建国とされる。
[15]
全軍で10万程度と言われる
[16]
左翼三王子軍遼西へ
右翼カサル軍山西へ
中軍華北、山東へ
後、全軍集結して中都(現在の北京)を囲む
[17]
ジュチは本当に、やらずに済む戦闘は一つでも避けて通りたいらしい。
ここでジュチが本気になってたら間違いなくムハンマドの首を上げてたと思うけど、そうなったら歴史はどう変わっただろうね。まあ、カラキタイの次はホラズムがターゲットなのはモンゴル側はみな分かってたろうから、手を出さないよう厳命されてたんだろうけど。
[18]
この年、トゥマト族を討滅に出て戦死したとする資料もあるが、やはり1207年が正しいらしい。
[19]
モンゴルの送った通商使節団450人が、オトラルの総督イナルチュク(ガイル・ハン)にスパイ容疑をかけられ、皆殺しにされた事件。これが征西の理由となった。
もっともモンゴル側はすでに戦争準備をしていたから、本当にスパイだったと思われる。
ガイル・ハンは母后テルケン・ハートゥーンの親族だったので、事件後モンゴル側からの引き渡し要求にも、スルタンは応じることができなかった。


[20]
第1軍 チンギス・ハン本隊
第2軍 チャガタイ、オゴタイ軍
第3軍 ジュチ軍
第4軍 ジェベ、スブタイ、トクチャル
     三個師団
[21]
6メートルの高さから騎馬のままインダスに飛び込み、モンゴルの追跡をかわす
[22]
この頃から本隊はゆっくり帰り支度
[23]
発病して8日、
8月25日(18日とも)
六盤山にて崩御
[24]
ケルレン河畔、
コデエ・アラルの地にて

[25]
耶律楚材がんばる
[26]
この頃の中書省は大ハーンの秘書官
[27]
9月
[28]
オゴデイの息子、
コデンが軍を率いる
[29]
4月9日 リーグニッツの戦い
4月10日 モヒの戦い
[30]
戦争やるより王様一人暗殺した方が、死ぬ人数少なくてよっぽど平和主義という、一理あるが対処に困る集団。
[31]
ウリャンハダイは
スブタイの息子
[32]
モンケは戦病死
赤痢とも言われる
[33]
モンゴルの不敗神話の崩壊
相手のエジプト軍も、モンゴル軍と同じような編成のキプチャクの遊牧民奴隷軍

[34]
この辺から中書省は民生の執政機関になる
[35]
枢密院は軍政機関
中書省から軍制が独立して発足

[36]
御史台は官吏観察機関
[37]
チベット層パスパに作らせる
それまでのウイグル文字の借用より、モンゴル語を正確に表記できるが、あまり普及しなかった

[38]
尚書省は経済、財政をつかさどる機関。
アフマッドが長官になると、中書省を吸収し、その他の機関も侵食していった

[39]
ちょっと揉んでみろ。
[40]
中国の壇ノ浦。
幼帝は海に没した。
[41]
大量に降伏してきた南宋兵を放っとくと危ないので、海の向こうに捨ててきちゃえって意味もあった。
10万いた兵の大半は、鋤鍬持った屯田兵だった

[42]
五投下は漢人軍閥
[43]
正月10日
[44]
ハイシャン、アーユルパリドラの母、ダキ・ハトンは、コンギラト族
[45]
コンギラト派は勢力を失う
[46]
モロッコのベルベル人、イブン・バットゥータ、キプチャクの黄金のオルドを訪問する